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2015年1月30日金曜日

『戦後レジームからの脱却』とは・・抹殺された民族精神の復活

これは、いまや満足せる豚と化した大半の日本人にとっては、軍国主義者の危険思想に聞こえる一方、一部の目覚めつつある人々にとっては、居ても立ってもいられない緊急課題となっている。

掲題をめぐってマスコミ(テレビ、新聞、週刊誌)やミニコミ(ネット、月刊誌)による報道合戦が展開されているが、殆んどの人々は、一体何をどう判断してよいのか戸惑っているというのが実態だろう。
問題は以下の5点に要約できる。
①殆どの日本人は、日本が第2次世界大戦において米国を相手とする総力戦に完敗し、7年間の長きに渡って占領下にあった事実を忘れている・・忘れさせられている。
②総力戦に完敗するということの意味する過酷な桎梏を認識していない。
③確信犯および彼らに洗脳され、あるいは操られたエージェントによる破壊工作が未だに継続し、むしろ活発化しつつある。
④歴代首相が取った行動の真意がわからない。
⑤安倍首相の行動にも一貫しないように思えるところがある。

これらについて、詳細に説明する余力は無いが、代わりに、私が最近読んだ雑誌(WILL2014.5)の中で、以上の5点について、的確に論じている記事を紹介したい。

国会会期中に河野洋平を参考人招致せよ: 倉山 満
(「戦後レジームからの脱却」は長期戦覚悟、ポーランドは140年後に復活。)
朝日社説は狂ってるよ: 対談(堤 尭、久保紘之)
(ウクライナ紛争や慰安婦問題での安倍首相がとった態度の真意、etc.)
昭和天皇「七つの謎」5 天皇周辺の赤いユダ(前編): 加藤康男
(本土決戦を唱えた青年将校らは、敗戦の混乱に乗じた共産革命を策していたらしい・・。) 

2015年1月23日金曜日

人は死んだらどうなるか(究極の難題)・・総集編

2013年3月12日に書きかけたものの、2年近く中断していた掲題のテーマについて現時点での知識と理解の範囲でまとめてみました。
今月12日から22日までの6回のFacebook投稿記事は以下の通りです。

その1
https://www.facebook.com/masuteru.sekiguchi/posts/780904865323062?pnref=story
その2 
https://www.facebook.com/masuteru.sekiguchi/posts/781211121959103?pnref=story
その3 
https://www.facebook.com/masuteru.sekiguchi/posts/783846195028929?pnref=story
その4 
https://www.facebook.com/masuteru.sekiguchi/posts/785118484901700?pnref=story
その5 
https://www.facebook.com/masuteru.sekiguchi/posts/785676831512532?pnref=story
その6 
https://www.facebook.com/masuteru.sekiguchi/posts/786350441445171?pnref=story

人は死んだらどうなるか(究極の難題)・・その6

最後に、②-2-2-2を考察して、当面の中間報告としてこの稿の締めくくりとする。
以下は、ホームページ「一期一会」およびブログ「病床日記」に折に触れて書き加えてきた私自身の死生観「Scientific Modelling of Zen Concepts」からの引用である。
http://oureternalmoment.web.fc2.com/ryakureki/inga_hitsunen_model.htm

『 概念モデル 』 の構築

これは、論理でしかコンセンサスが得られなくなった近代以降の科学技術パラダイムとの近似的橋渡し手段として、一定の効用が有るだろうと想定して試みたものです。

人間の認識力に関するパラダイム転換が起こるのがベストだろうとは思っていますが、今のところ、物理学は、故坂田名大教授が夙に指摘したとおり、現象論からスタートして実体論の領域まで歩を進めてきたものの、本質論には一歩も踏み込んでいません。

サイエンスの世界と認識論の世界の距離は無限大かも知れませんが、その極限点としての本質論にベクトルの方向を合わせているのは、今のところ位相数学とその応用としての超ひも理論くらいのものだろうと見当をつけています。

此処から先は私の思考能力を超えるので、問題提起とヒントの提示に留め、後は若い天才たちの挑戦に期待したいと思います。

仮設概念モデル・・・とりあえずのメモであり、今後、いろいろ見なおしていきたい。
1.
宇宙(この4次元時空に限らず未知の宇宙を含む全ての宇宙)は、原因の無限集合とその結果の無限集合で満ちている。
2.
原因の部分集合が縁(未定義の概念)によって一つの部分集合を構成し、その結果としての何らかの現象(例えば4次元時空の場合、一定の時空間において生起し消滅する生命現象など)を起こす。
3.
部分集合としての現象がその活動(時空間)を通じて新たな原因の集合を作り出す。
4.
既存の原因集合と新たに加わった原因集合の要素が、縁によってまた新たな現象を引き起こす。
5.
これら因縁果の連鎖を業と呼ぶ。
6.
色とは、これら無限に多様化する部分集合の反映であり、空とは、これらすべての原因集合と結果集合を包含する全集合である。
以上のプロセスを仮定することによって、禅における 「業」、「縁」、「因果必然」、「色即是空、空即是色」、「生まれ変わり(=個体単位の魂の入れ替え) の否定」等の表現を矛盾無く説明できるのではあるまいか。

但し、仮に識者の協力を得て矛盾の無いモデルが出来たとしても、今度はそれをいかに検証するかの難題が残り、とくに、ここで言う 「因果律」 を 「物理学的因果律」 とどう関連付けるかについては、今のところお手上げである。 結局、「只管打座」 に逆戻りするだけかも知れない。

しかし、数学的モデルであれば、少なくとも論証は可能だろうし、物理学的モデルであれば、いずれ何時の日にか実験による検証も可能になるはずである。

私としては、禅に有ってサイエンスに無いもの、、つまり、縁の導入に一つの手掛かりが見出せないかと期待している。 例えば、原因Iと原因J が結びついて結果IJ を生じるとしよう。このとき、無限に存在する原因の中から、なぜこの2つの原因が結びついて相乗効果を齎すのか、現代科学では説明を放棄しているが、ここに若し縁という作用が存在し、これら2つの原因を結びつける力として作用すると仮定すれば、現代科学を無味乾燥な確率論の世界から、意味のある因果応報の世界に脱皮させ、生き甲斐という言葉が重要な意味を持つ世界が現前する事になるかもしれない。
では、この縁なる作用の存在を如何にして検証し、計測するか、若しこれに成功すれば、それは世紀のと言うより、ミレニアムレベルの大発見となるだろう。

駒澤大学あたりですでに概念モデル作りに着手していることを期待するが、もしその気が無いとすれば 道元禅師 が嘆くだろう。

曹洞宗教典―修證義―

―第一章總序―
生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり、生死の中に佛あれば生死なし、ただ生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃としてねがうべきもなし、この時初めて生死を離るるぶんあり、ただ一大事因縁と究盡すべし、人身得ること難し、仏法値(お)うこと希なり、今我等宿善の助くるに依りてすでに受け難き人身を受けたるのみに非ず遇い難き仏法に値(あ)い奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし、最勝の善身を徒にして露命を無常の風に任すること勿れ。
無常たのみ難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身すでに私に非ず、命は光陰に移されて暫くもとどめ難し、紅顔いずくえか去りにし、尋ねんと跡(しょうせき)なし、熟(つらつら)観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは国王大臣親昵従僕妻子珍寶たすくる無し、唯獨り黄泉に趣くのみなり、己に随い行くは只是れ善悪業等のみなり、今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、善悪をわきまえざる邪見のともがらには群すべからず、おおよそ因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る、豪釐(ごうり)もたがわざるなり、もし因果亡じて虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。
善悪の報に三時あり。一つには順現報受、二つには順次生受、三つには順後次受これを三時という、佛祖の道を修習するには、その最初よりこの三時の業報の理を効(なら)いあきらむるなり、しかあらざれば多くあやまりて邪見に堕つるなり、ただ邪見に堕つるのみに非ず悪道に堕ちて長時の苦を受く。まさに知るべし今生の我身二つ無し三つ無し、徒に邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん惜しからざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて悪の報を感得せざるには非ず。

雑感1: 「存在と時間」 について

2010年9月21日の日経朝刊、「私の履歴書」 で哲学者、木田元氏がハイデガーの 「存在と時間」 について書かれている。 要するにさっぱり分からなかったと言うことである。 氏だけではなく、他の日本の研究者も、ドイツの研究者にも分かっていない、あるいは、分かっていないのに分かったつもりでいる連中は大勢いたということであるが、早い話がハイデガーはドイツの大学に職を確保するため何かそれらしき論文を書かなければならなかっただけだ。 私に言わせれば、 彼の言う “Dasein”など駆け出しの禅僧が悟りもしないのに 「悟った!」 と思い込んで老師に一喝される魔境の類に過ぎない。 しかし、それにしても 「存在と時間」 というタイトルは流石というべきか。 かく言う私なども、高校生の頃、きっとそれを読めば、禅の悟りに近い思想が論理明快に述べられているに違いない、 少なくとも 相対性理論 よりは一歩先に進んでいるだろうと期待したものだ。

同じ日の日経夕刊、「プロムナード」 に、これまた哲学者の森岡正博氏が「時間の流れの真の意味」 と題する体験談を書かれている。 要するに一言で言えば、この一瞬はこの宇宙(時空と言うべきか)で、自分だけの体験する一瞬であり、しかも、次の瞬間にはもう存在しない・・・と言う趣旨であった。 「存在と時間」 の饒舌が徒に繰り返す “Dasein”よりこの方がよほど簡潔で明快である。

流石、日本の哲学者は違う、と感嘆したいところだが、これとても、まじめな禅僧が修行の初期に体験する通過点の一つに過ぎない。
こんなことは何百年も前に、「色即是空、空即是色」 の八文字で言い尽くされている。 勿論、それを体感することと、単に概念として理解することとは全く次元を異にするものであることを否定するつもりはない。 私自身、まだ概念としてすら理解できたとは言えない。

しかし、仮に 「色即是空、空即是色」 を体感できたとしてもまだその先がある。 つまり、何故、「空即是色」 なのかが体感できなければ悟ったとはいえないのだ。 禅語の中にその答ないし答のヒントを求めるとすれば、「因果必然」 に行き着くしかない。 私が因果の無限集合連鎖モデルを提唱する所以である。

雑感2: 「佛家一大事の因縁」 について

不立文字、只管打坐 の教えに敢えて逆らうことになるが、「無限集合連鎖モデル」 に基づく一応の解釈を提示しておく。
この解釈に自信があるわけではないので、異論は大いに歓迎する。 そうして、徐々に正解に近づいていければ嬉しい。
佛  家  
存在の不思議に目覚めた自分
一大事
自分が今こうして存在すると言う奇跡的現象
因  縁
その奇跡的現象の因って来たる因と縁の無限集合連鎖
「天上天下唯我独尊」 とは、このことを言おうとしたのではあるまいか。
これを、概念的に解釈するだけでなく体感できれば、確かに手の舞い、足の踏むところを知らず・・・の歓喜が沸いて来ても不思議ではなかろう。
まさに、直指人身(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)とは、そのような体験を言うのかも知れない。 私などは、直指(じきし)も見性(けんしょう)もしていないので、未だ成仏(じょうぶつ)には程遠い心境にとどまっている。

雑感3: 「解脱⇒悟り」について

一般には、「無念無想」の状態を経て初めてこの境地に達しうる・・等々の説明がなされているが、ではこの「無念無想」とはいかなる状態を言うのか必ずしも明確でない。 無念無想と言いながら一方において、これは何も考えないと言うことではないという言い方は、まさに「禅問答」である。
私としては、これを所謂インプリント(刷込み)の一時退避に近い概念だと仮定したら旨く説明できるのではないかと思っている。
無念無想  
悟りにいたる第一歩で、母の胎内にいた時以来の、一切の刷込みを一旦アンインストールすること。(至難の業!)
直視人身
新たな認識パラダイムを自在にインストールしうる白紙の自己(プラットフォーム)を獲得すること。(コンテンツとしての悟りではない!)
見性成仏
偏りのない認識パラダイム(コンテンツとしての悟り)のインストールに成功すること。(極めて稀だということは、法華経に書いてある!)
この過程で、偏った認識パラダイムに安住してしまうことを「魔境」に落ちるといい、正しいベクトルに沿ったパラダイムのインストールに成功することを「悟り」と言う。 その深さと大きさは、まさに ⇒∞ であると考えれば、釈迦や達磨も「大悟」はしたかも知れないが「徹底」したわけではなく、未だ修行中だという比喩も理解できる。『臨済録』に曰く、「釈迦に会っては釈迦を殺せ、達磨に会っては達磨を殺せ」
少なくとも、「因縁果の無限集合連鎖モデル」には矛盾しないと思われる。

2015年1月22日木曜日

人は死んだらどうなるか(究極の難題)・・その5

第3段階の分類
②-2-1:人類の生存するこの世界(宇宙)には、生命体の営為に関して、従来の科学では存在が確認されていない未知の保存則と因果律が存在する。
②-2-2:人類の通常の認識機能(≒意識?)では知覚できない位相世界(宇宙)があって、その位相世界における一要素として一定の法則の下に存続する。

②-2-2だと仮定し、更にこれを2通りの場合に分類して考察する。

第4段階の分類
②-2-2-1:この世界(宇宙)の生命体を1つの要素とする世界が存在し、各々の要素は、一定の因果律の下に、活性状態(どこかの世界の生命体として活動中)と休眠状態(何処の世界にも生命体として存在しない)を交互に繰り返している。
②-2-2-2:生命体単位の営為を1つの事象とする保存則と因果律は存在するが、原因事象と結果事象が厳密な1対1の対応関係に在るとは限らない。

②-2-2-1と仮定すれば:
●「絶対神」を持ち出さなくても、生まれながらの運・不運を合理的に説明できる。
●「輪廻転生、中有、因果応報」の一般的モデルとなり得る。

これと、②-2-1との違いは、対象とする世界を、我々が住む宇宙(4次元時空)の外まで広げてより合理的に説明しようとしたところにある。その分、益々、検証するための手がかりを見つけるのは絶望的に難しい。

②-2-2-2だとすれば:
人は死んだらどうなるか(究極の難題)・・その6 へ続く

2015年1月21日水曜日

人は死んだらどうなるか(究極の難題)・・その4

第2段階分類
②-1:生前の記憶を保持した意識主体(=霊魂)として存続する。
②-2:生前の記憶と意識機能は肉体の消滅と共に消滅するが、何らかの未知の要素が存続する。

後者②-2だと仮定し、更にこれを2通りの場合に分類して考察する。
第3段階の分類
②-2-1:人類の生存するこの世界(宇宙)には、生命体の営為に関して、従来の科学では存在が確認されていない未知の保存則と因果律が存在する。
②-2-2:人類の通常の認識機能(≒意識?)では知覚できない位相世界(宇宙)があって、その位相世界における一要素として一定の法則の下に存続する。

②-2-1と仮定すれば:
●この世において何時か何処かで何らかの形での転生がありうる。
●この場合、時間や距離の長短は、人間の生理的感覚には無関係だと考えられるから、1億年後に一億光年遠方に未知の生命体として転生したとしても、一晩寝て起きたら生まれ変わっていたと言うのと変わらない。
●ただし、未知の因果律の範疇に「縁の作用」が存在すると仮定すれば、千年後に、同じ地球に転生して人間同士として巡りあうという、嘘のような話もありうることになる。
●さらに、望ましいのは、何らかの手段で因果律の作用を検知して、死者のその後に関する何らかの消息を知りうることである。霊媒による降霊術が根強い人気を維持し続けるのは、その願望を手っ取り早く実現してくれるからだろう。

この仮定を実証する科学的研究は、皆無と言って良いが、一方、研究自体がアカデミック・サークルにおいてはタブーになっているため、科学的に否定した研究も無く、世間では未だに甲論乙駁である。
当然のことながら、宗教界の猛烈な反駁を圧してまで人類の永遠の夢を敢えて壊したくないという自己規制も働いているはずである。

世界には、無神論から始まって、一神教、多神教、汎神論まで様々な思想や信仰の持ち主が居るが、いずれもこの範疇に属すると言ってよい。
「永遠の命を得るには特定の神の許可が必要だ」と言う人々も居れば、「善人なおもて往生す況や悪人においてをや」とか、「一切衆生悉有仏性」などという鷹揚な一派まであるが、いずれも、②-2-1で仮定する「生命体の個体に対応する精神世界の存在」を前提としていることでは大差ない。
②-2-1は、一つの可能性として今後の科学的研究を待つことにして、②-2-2の考察を進めることにする。

②-2-2だとすれば:
人は死んだらどうなるか(究極の難題)・・その5 へ続く

2015年1月19日月曜日

人は死んだらどうなるか(究極の難題)・・その3

第1段階分類
①肉体の消滅とともに、個体単位での痕跡は全て消滅する。
②肉体の消滅後も、何らかの形で個体単位で存在し続ける。

後者②だと仮定し、これを更に2通りの場合に分類して考察する。
第2段階分類
②-1:生前の記憶を保持した意識主体(=霊魂)として存続する。
②-2:生前の記憶と意識機能は肉体の消滅と共に消滅するが、何らかの未知の要素が存続する。

②-1だとすれば:
●肉体が存在しないのだから生老病死も無いと考えざるを得ない。
●そうだとすると死んだ瞬間の意識、あるいは認識能力が存続すると考えざるを得ないが、それが、その個体の生前における最良の状態、あるいは水準であるとは限らない。多くの場合、「麒麟も老いては駑馬に劣る」の格言通り、老耄した劣悪な状態の意識能力が存続することになるだろう。
その意味では、最善の死に方は、人生において最も知力・体力が充実した二十歳前後に崇高な使命感を持って燃え尽きることだと言うことになる。特攻隊員や自爆テロリストは大いに称揚されて然るべきで、悼む理由は何もない。
●一般に、死後の世界に期待をかける人々の想像する魂の概念は極めて恣意的で、その個体の生涯における最良の水準を当然視しているように思われるが、魂の存続がそれを保証してくれる根拠は何一つ示されていない。
●転生の概念は、この不都合に対する修正として案出されたものと想像される。つまり、人生のやり直しである。旧バージョンを何処かにストアして置くことで自己の存続を保証する一方、新バージョンを胎児のレベルから再開することで、意識能力の生涯変動と個体の永続性の両立という難題をクリアした・・と言うよりスルーしたわけである。
スルーしたと言う意味は意識の存続という②-1の命題を自己の存続という②-2の命題にすり替えてしまっているということである。
●さらに、五感の存在しない意識とはどんなものか具体的に説明されたこともない。少なくともヘレン・ケラーすら想像の付かない世界で、多くの人々が期待するような悦楽に満ちた天国だとは思えない。

以上を総括すると、②-1(魂の存続)の主張には、曖昧な点があまりにも多く、一貫性が無さ過ぎると言わざるを得ない。単なる願望の細切れを寄せ集めただけで、仮説としてもその体をなしていない。
②-1には、「仮説としての霊魂」の再定義を待つこととして、②-2に考察の重点を移すことにしたい。

②-2だとすれば:
人は死んだらどうなるか(究極の難題)・・その4 へ続く

2015年1月15日木曜日

人は死んだらどうなるか(究極の難題)・・その2

2013年3月12日の日記で、人々の死生観の分類から始めることにしたので、結論(有るかどうかわからない!)を急がず、ともかく其処から手をつけることにする

この前は、分類基準をどうするかと言う入り口で立ち止まってしまったが、先日、例によってうつらうつらしている時、何か閃いた気がしたので、やれそうな気がしてきた。
とにかく抜けの無いように排反的全事象を網羅する2分法の反復に徹することで、従来の小難しい詭弁よりはマシな整理が出来る筈である。

先ず、議論を始めるに当たっては、命題の定義と前提条件を厳密に提示すべきであるが、最初から完璧を期待することが困難であることは、数学史が教えるとおりである。
そこで、ここでは、大雑把な仮説から始めて、論理の展開過程で不備や矛盾を訂正していくことにする。

【命題】人は死んだらどうなるか。

【用語の定義】
人:主体としての意識を持ったホモ・サピエンスの個体で、死体ではないもの。
死:新陳代謝機能の恒久的停止、または、焼失等による肉体の消滅。

【命題の再定義】:人間は死によって肉体が消滅した後も、何らかの形で生前の個体単位で存在し続けるか。

第1分類
①肉体の消滅とともに、個体単位での痕跡は全て消滅する。
②肉体の消滅後も、何らかの形で個体単位で存在し続ける。

前者だとすれば:
●意識現象は生理作用の一種であり、肉体の機能停止と同時に消滅する。ただ、その発生機序(メカニズムとプロセス)が未知なだけである。
●したがって霊魂や霊界なるものは存在しないし、輪廻転生も勿論存在しない。
●テレパシーや殺人事件など過去の事実を認知する所謂超能力は、有るとしても生きた人間の未知の能力であって、死後も個体としての意識である霊魂が存在するという根拠にはならない。
●遺伝子や個人的感化、社会的影響などを通じての痕跡はすべて、静的な情報として継承されるに過ぎず、主体としての意識を持った個体としての存続を意味しない。
●過去生が存在しない以上、生まれながらの運不運は、全くの偶然である。
●多生間の因果応報が存在しない以上、生涯における因果応報の法則も恐らく存在しない。
●要するに一切の社会規範は便宜的なもので、自然法則としての善悪の区別は無い。

これらから得られる結論は、生きるも死ぬも殺すも助けるも勝手だということである。
殆どの宗教家は否定するだろうが、その方がすっきりしていて好ましいと言う人もいるだろう。因みに禅宗では、魂の入れ替えは無いと言って単純な子供だましの輪廻転生論を否定しているが、過去生(前生)や将来生(後生)を通貫する「因果の道理は豪釐(ごうり)もたがわざるなり」として、生死に依存しない自己の存在(業)を示唆している。

これだけの理由で①を棄却するのは、いささか乱暴の謗りを受けそうであるが、ここでは一旦、仮の結論を①には疑問ありとして、②の可能性を考察することにしたい。

後者②だとすれば: 
人は死んだらどうなるか(その3) につづく 

2015年1月13日火曜日

因果必然の科学的モデル化(Scientific Modelling of Zen Concepts)

関口益照サイト 『一期一会』(Our Eternal Moment)より
members3.jcom.home.ne.jp/sekiguchi_prof/

これは、私の祖父、関口益三郎から、父、関口益男へ、そして私、関口益照へと託された(と私が勝手に思い込んでいる)祖父子三代に渡る宿題です。

祖父関口益三郎は、群馬県邑楽郡千代田村字茅野で関口本家の二男として生まれ、明治39年桐生町に歯科医院を開業するが、診療は程々にして『秋石』の雅号で書画骨董に勤しむ一方、曹洞宗の高僧 原田祖岳 老師来桐の折は、市内養泉寺に泊り込み、田中智学住職(慶大教授)とともに参禅するという道俗の間を往来する生涯を過ごしました。 昭和24年没。 享年70歳。 私が小学校4年生、10歳の時です。

私が中学生の頃、父から聞いた話によると、原田老師は、アインシュタインの相対性理論の登場に接し、これからは、科学者に "禅理" の解明を期待すると言っていたそうです。 また随一の高弟と目されていた 安谷白雲老師 は、70歳を超えて尚、欧米での "禅" 普及活動を続けていたが、昭和42年、父が59歳で他界する半年ほど前、4半世紀振りに桐生の我が家に一泊されたことがあり、当時、27歳の富士通社員だった私もその謦咳に接した縁が有ります。

それ以前から、浪人時代、東大生時代、富士通社員時代、東京情報大学教授時代を通じて、この宿題が頭を離れることはなかったが、俗事に紛れて(事寄せて)先延ばしを繰り返していました。 今回、図らずも急性A型大動脈解離で倒れたにも拘らず、九死に一生を得たのも何かの因縁と思い定め、このような毀誉褒貶の定かでない課題に取り組む決心をした次第です。


『 概念モデル 』 の構築
これは、論理でしかコンセンサスが得られなくなった近代以降の科学技術パラダイムとの近似的橋渡し手段として、一定の効用が有るだろうと想定して試みたものです。


人間の認識力に関するパラダイム転換が起こるのがベストだろうとは思っていますが、今のところ、物理学は、故坂田名大教授が夙に指摘したとおり、現象論からスタートして実体論の領域まで歩を進めてきたものの、本質論には一歩も踏み込んでいません。

サイエンスの世界と認識論の世界の距離は無限大かも知れませんが、その極限点としての本質論にベクトルの方向を合わせているのは、今のところ位相数学とその応用としての超ひも理論くらいのものだろうと見当をつけています。

此処から先は私の思考能力を超えるので、問題提起とヒントの提示に留め、後は若い天才たちの挑戦に期待したいと思います。

仮設概念モデル・・・とりあえずのメモであり、今後、いろいろ見なおしていきたい。
1.宇宙(この4次元時空に限らず未知の宇宙を含む全ての宇宙)は、原因の無限集合とその結果の無限集合で満ちている。
2.原因の部分集合が縁(未定義の概念)によって一つの部分集合を構成し、その結果としての何らかの現象(例えば4次元時空の場合、一定の時空間において生起し消滅する生命現象など)を起こす。
3.部分集合としての現象がその活動(時空間)を通じて新たな原因の集合を作り出す。
4.既存の原因集合と新たに加わった原因集合の要素が、縁によってまた新たな現象を引き起こす。
5.これら因縁果の連鎖を業と呼ぶ。
6.色とは、これら無限に多様化する部分集合の反映であり、空とは、これらすべての原因集合と結果集合を包含する全集合である。
以上のプロセスを仮定することによって、禅における 「業」、「縁」、「因果必然」、「色即是空、空即是色」、「生まれ変わり(=個体単位の魂の入れ替え) の否定」等の表現を矛盾無く説明できるのではあるまいか。

但し、仮に識者の協力を得て矛盾の無いモデルが出来たとしても、今度はそれをいかに検証するかの難題が残り、とくに、ここで言う 「因果律」 を 「物理学的因果律」 とどう関連付けるかについては、今のところお手上げである。 結局、「只管打座」 に逆戻りするだけかも知れない。

しかし、数学的モデルであれば、少なくとも論証は可能だろうし、物理学的モデルであれば、いずれ何時の日にか実験による検証も可能になるはずである。

私としては、に有ってサイエンスに無いもの、、つまり、縁の導入に一つの手掛かりが見出せないかと期待している。 例えば、原因I原因J が結びついて結果IJ を生じるとしよう。このとき、無限に存在する原因の中から、なぜこの2つの原因が結びついて相乗効果を齎すのか、現代科学では説明を放棄しているが、ここに若し縁というプロパティーが存在し、これら2つの原因を結びつける力として作用すると仮定すれば、現代科学を無味乾燥な確率論の世界から、意味のある因果応報の世界に脱皮させ、生き甲斐という言葉が重要な意味を持つ世界が現前する事になるかもしれない。
では、この縁なるプロパティーの存在を如何にして検証し、計測するか、若しこれに成功すれば、それは世紀のと言うより、ミレニアムレベルの大発見となるだろう。

駒澤大学あたりですでに概念モデル作りに着手していることを期待するが、もしその気が無いとすれば 道元禅師 が嘆くだろう。

曹洞宗教典―修證義―

―第一章總序―
生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり、生死の中に佛あれば生死なし、ただ生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃としてねがうべきもなし、この時初めて生死を離るるぶんあり、ただ一大事因縁と究盡すべし、人身得ること難し、仏法値(お)うこと希なり、今我等宿善の助くるに依りてすでに受け難き人身を受けたるのみに非ず遇い難き仏法に値(あ)い奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし、最勝の善身を徒にして露命を無常の風に任すること勿れ。
無常たのみ難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身すでに私に非ず、命は光陰に移されて暫くもとどめ難し、紅顔いずくえか去りにし、尋ねんと跡(しょうせき)なし、熟(つらつら)観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは国王大臣親昵従僕妻子珍寶たすくる無し、唯獨り黄泉に趣くのみなり、己に随い行くは只是れ善悪業等のみなり、今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、善悪をわきまえざる邪見のともがらには群すべからず、おおよそ因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る、豪釐(ごうり)もたがわざるなり、もし因果亡じて虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。
善悪の報に三時あり。一つには順現報受、二つには順次生受、三つには順後次受これを三時という、佛祖の道を修習するには、その最初よりこの三時の業報の理を効(なら)いあきらむるなり、しかあらざれば多くあやまりて邪見に堕つるなり、ただ邪見に堕つるのみに非ず悪道に堕ちて長時の苦を受く。まさに知るべし今生の我身二つ無し三つ無し、徒に邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん惜しからざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて悪の報を感得せざるには非ず。

雑感1: 「存在と時間」 について

2010年9月21日の日経朝刊、「私の履歴書」 で哲学者、木田元氏がハイデガーの 「存在と時間」 について書かれている。 要するにさっぱり分からなかったと言うことである。 氏だけではなく、他の日本の研究者も、ドイツの研究者にも分かっていない、あるいは、分かっていないのに分かったつもりでいる連中は大勢いたということであるが、早い話がハイデガーはドイツの大学に職を確保するため何かそれらしき論文を書かなければならなかっただけだ。 私に言わせれば、 彼の言う “Dasein”など駆け出しの禅僧が悟りもしないのに 「悟った!」 と思い込んで老師に一喝される魔境の類に過ぎない。 しかし、それにしても 「存在と時間」 というタイトルは流石というべきか。 かく言う私なども、高校生の頃、きっとそれを読めば、禅の悟りに近い思想が論理明快に述べられているに違いない、 少なくとも 相対性理論 よりは一歩先に進んでいるだろうと期待したものだ。

同じ日の日経夕刊、「プロムナード」 に、これまた哲学者の森岡正博氏が「時間の流れの真の意味」 と題する体験談を書かれている。 要するに一言で言えば、この一瞬はこの宇宙(時空と言うべきか)で、自分だけの体験する一瞬であり、しかも、次の瞬間にはもう存在しない・・・と言う趣旨であった。 「存在と時間」 の饒舌が徒に繰り返す “Dasein”よりこの方がよほど簡潔で明快である。

流石、日本の哲学者は違う、と感嘆したいところだが、これとても、まじめな禅僧が修行の初期に体験する通過点の一つに過ぎない。
こんなことは何百年も前に、「色即是空、空即是色」 の八文字で言い尽くされている。 勿論、それを体感することと、単に概念として理解することとは全く次元を異にするものであることを否定するつもりはない。 私自身、まだ概念としてすら理解できたとは言えない。

しかし、仮に 「色即是空、空即是色」 を体感できたとしてもまだその先がある。 つまり、何故、「空即是色」 なのかが体感できなければ悟ったとはいえないのだ。 禅語の中にその答ないし答のヒントを求めるとすれば、「因果必然」 に行き着くしかない。 私が因果の無限集合連鎖モデルを提唱する所以である。
安谷白雲老師が桐生の我が家に一泊された折の揮毫
(昭和42年: 同年末に父益男が他界)

雑感2: 「佛家一大事の因縁」 について

不立文字、只管打坐 の教えに敢えて逆らうことになるが、「無限集合連鎖モデル」 に基づく一応の解釈を提示しておく。
この解釈に自信があるわけではないので、異論は大いに歓迎する。 そうして、徐々に正解に近づいていければ嬉しい。
佛  家  存在の不思議に目覚めた自分
一大事自分が今こうして存在すると言う奇跡的現象
因  縁その奇跡的現象の因って来たる因と縁の無限集合連鎖
天上天下唯我独尊」 とは、このことを言おうとしたのではあるまいか。
これを、概念的に解釈するだけでなく体感できれば、確かに手の舞い、足の踏むところを知らず・・・の歓喜が沸いて来ても不思議ではなかろう。
まさに、直指人身(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)とは、そのような体験を言うのかも知れない。 私などは、直指(じきし)も見性(けんしょう)もしていないので、未だ成仏(じょうぶつ)には程遠い心境にとどまっている。

雑感3: 「解脱⇒悟り」について

一般には、「無念無想」の状態を経て初めてこの境地に達しうる・・等々の説明がなされているが、ではこの「無念無想」とはいかなる状態を言うのか必ずしも明確でない。 無念無想と言いながら一方において、これは何も考えないと言うことではないという言い方は、まさに「禅問答」である。
私としては、これを所謂インプリント(刷込み)の一時退避に近い概念だと仮定したら旨く説明できるのではないかと思っている。
無念無想  悟りにいたる第一歩で、母の胎内にいた時以来の、一切の刷込みを一旦アンインストールすること。(至難の業!)
直視人身新たな認識パラダイムを自在にインストールしうる白紙の自己(プラットフォーム)を獲得すること。(コンテンツとしての悟りではない!)
見性成仏偏りのない認識パラダイム(コンテンツとしての悟り)のインストールに成功すること。(極めて稀だということは、法華経に書いてある!)
この過程で、偏った認識パラダイムに安住してしまうことを「魔境」に落ちるといい、正しいベクトルに沿ったパラダイムのインストールに成功することを「悟り」と言う。 その深さと大きさは、まさに ⇒∞ であると考えれば、釈迦や達磨も「大悟」はしたかも知れないが「徹底」したわけではなく、未だ修行中だという比喩も理解できる。
少なくとも、「因縁果の無限集合連鎖モデル」には矛盾しないと思われる。

2015年1月10日土曜日

Michael Yon & Kent Gilbert ・・大日本帝国の朝鮮統治の真実を語る 

韓国系米国人ジャーナリストのマイケル・ヨン氏が、彼のブログで慰安婦問題を含む大日本帝国の善政と韓国政府による歴史の捏造の全てを語っています。これに、ケント・ギルバート氏が協力し、
日本語版への翻訳を引き受けているそうです。

以前から言ってきたことですが、日本を良く知った一流の外国人ほど強い味方はありません。
一読しただけで、口下手な日本人が言いたくても言えなくて、腹を膨らませていた無念が氷解する思いです。



日経 "春秋" 欄のダブルスタンダード・・風刺は良くてテロは論外?

日経 "春秋"  欄のダブルスタンダード・・風刺は良くてテロは論外?

仏紙の風刺に対するイスラム教徒の報復が世間を騒がせている。
私にとっては、どっちもどっちだと言うレベルの問題だが、春秋子にはそうではないらしい。
手塚治虫まで引き合いに出して縷々風刺の意義を論じたうえで、「風刺にも節度が必要だが銃弾による封殺は論外だ」 と一刀両断に切り捨てる一方、「言論による封殺」 にはお構いなしである。

メディアを支配する者が、ことの是非を問わず、暴力を否定し、言論・表現の自由を不可侵の絶対価値のように喧伝するのは、自分たちの既得権を守り、恣意的な世界観(江藤淳の言う『閉ざされた言語空間』)に閉じ込めておきたいからに他ならない。

言論を封じられた弱者が言論以外の手段で抵抗するのは当然である。
チベットやタイでの焼身自殺は擁護し、イスラム教徒の自爆テロを非難する論理は何処から来るのだろうか。いずれも暴力的抵抗であることに変わりは無いのだ。
「言論の自由」がそれほど厳しく追及されるなら、同時に「言論の責任」もそれ以上厳しく追及されて然るべきである。
言論の自由を標榜する者は、つねに、自らの言論が、不特定多数の或る人々に対する無差別拷問や、未必の故意による殺人を犯しかねないことを知るべきだ。
自分たちが、相手に対して死よりも辛い言語的暴力を加えながら、相手からの物理的暴力に怯えるなど、まさに怯懦を絵に描いたようなものである。
フランス人でも、アンドレ・マルローやエバリスト・ガロアだったら、フランスの恥だ!と言って嘆いたろう。
http://www.geocities.jp/kamikazes_site/gaikoku_kamikaze/andre_malro.htm

暴力否定論者に是非教えておきたいことがある。
無抵抗主義者と言われ、西欧から "賞賛" されたマハトマ・ガンジーの言葉である。
「・・私を無抵抗主義者と呼ぶのは、正しくない。私達に銃があれば銃を取って戦うだろう。銃が無いから、已む無く不服従と言う手段で抵抗するしか無いだけだ。」
インドが最終的に独立できたのは、日本軍の支援によって設けられたインド国民軍による武力反撃があったからだった。

「伝説のディーラ」藤巻健史の他人事のような警告

今日の日経広告欄によれば、嘗てバブルの頃、外資系投資銀行の東京支店で、伝説のディーラーと呼ばれ世界の金融市場で、”ミスわたなべ” と共に注目されていた(本人曰く)藤巻健史氏が何冊目かのアンチ日銀論を発行したらしい。

オドロオドロしい見出しが何行か躍っているが、要するに日銀の異次元緩和は、危ない賭けでそのうち日本国債の暴落を招くのは火を見るより明らかだから金持ちは早く処分した方が良いという "抜け駆けの進め” である。

国を挙げて、デフレ脱却のために荒療治もやむなしと踏ん張っているときに、援護どころか足を引っ張るような事を言って賢しらぶるのは外資系禿鷹企業で成功した小金持ちの通弊である。

そもそも日本国債の信用度をブラジル国債やジンバブエ国債のそれと同列に論ずる姿勢からして ”外から目線” そのものである。
一旦、市場の信任が失われたら暴落しかないとか、その結果は戦後の日本や旧ユーゴのようなハイパーインフレ(数百倍~数百万倍)に帰着するとか、いかにも政府や日銀が無知か、さもなければ悪意の確信犯であるかのように利いた風な事を言い立てているのは、彼こそ無知かさもなければ、日本叩きの確信犯である証拠だと思うしかない。

こういう売国的言辞こそ、日本国債の信任を傷つけるものだと言うことを、"伝説のディーラ” が知らないはずが無い。
殆どの日本国債保有者は、旧植民地諸国の傀儡支配層と違って、自国政府と自国民を信頼しており、我勝ちに国を捨てて生き残ろうなどとは思っていない。日本人としての意識を持っている金持ちの大半は、今でも、「円が紙くずになるときは国が駄目になるときだ。国が駄目になったときに自分だけ財産を後生大事に抱えていてもしょうがない。」と思っているはずだ。こういう国民性を無視して日本国債の信任が危ういなどと揺さぶりをかけるのは、意識的にか無意識にか知らないが、欧米金融資本の犬と成り下がっている人々である。

安倍さんや黒田さんも自分たちが必死になって支えているうちに、早く国民が元気になって自力で活路を開いて欲しいと思っているのだ。
昨年の暮れ、浜田宏一氏に「ハイパーインフレは起きませんよね?」、と聞いたときの返事の中に、「暫くはね・・」と言う言葉があったのはそのことに違いない。
その足を引っ張る藤巻氏は、馬鹿正直な日本の富裕層を狡猾な売国奴にしたいのだろうか?

2015年1月6日火曜日

新年祝賀の儀・・鹿鳴館はとっくに無くなったはず?

門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし・・一休

水を注すようですが、この方々の姿を見て皆さんどう思われますか。
若い人たちだったら、AKB48 や ももいろクローバーZ と比べかけて、…あっ、いけないと口を噤む人が多いのではないでしょうか。


この18世紀フランス王朝風の衣装が世界のデ・ファクト・スタンダードになっているわけではないでしょう。インドやアラブ諸国を見れば一目瞭然です。
欧化しない限り先進国になれないと言って来たのは、岩倉具視を始めとする偽装愛国者とその追随者たちです。
井上毅が、教育勅語を起草するに当たって重視した古事記の問答 "しらす"(民を映す鏡となる・・しろしめす) と "うしわく"(民を支配し生殺与奪を欲しいままにする) の違いを知っていたら、"しらす" 国の君主が "うしわく" 国の君主達と同じ衣装を公式の場で身に纏うという卑屈な姿勢にいつまでも甘んじているのは、見ていられないはずです。
果たして、当の皇族方はもとより、安倍さんはその事を知った上で、已む無く長いものに巻かれて居るのでしょうか・・若しそうだとしたらいったい何時まで?


歳末に聞いたハイドン(Haydn: Sonata in C Major)

年越しに相応しい感動的な演奏を見つけました。 老いた病人には、「歓喜の歌」よりこのほうが馴染みます。
演奏しているWaineさんは、10年前にあるピアノコンクールで優勝された方で、そのとき弾いた課題曲だそうです。左手首を失われたのはその後でしょう。 大学での専攻は歴史学で、研究課題として明治以降の現代日本を選んだので実地調査のため日本や台湾も訪れたことがあり、大の日本贔屓だと言っておられます。



勿論、日本における "第九" 熱もご存知のようで、25年前にベルリンの壁崩壊を記念してバーンスタイン指揮で行われた欧米の主要オーケストラによる合同演奏の動画を紹介してくれました。 政治的メッセージには異論もありえますが、歴史に残る名演奏であることは確かでしょう。