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2015年1月15日木曜日

人は死んだらどうなるか(究極の難題)・・その2

2013年3月12日の日記で、人々の死生観の分類から始めることにしたので、結論(有るかどうかわからない!)を急がず、ともかく其処から手をつけることにする

この前は、分類基準をどうするかと言う入り口で立ち止まってしまったが、先日、例によってうつらうつらしている時、何か閃いた気がしたので、やれそうな気がしてきた。
とにかく抜けの無いように排反的全事象を網羅する2分法の反復に徹することで、従来の小難しい詭弁よりはマシな整理が出来る筈である。

先ず、議論を始めるに当たっては、命題の定義と前提条件を厳密に提示すべきであるが、最初から完璧を期待することが困難であることは、数学史が教えるとおりである。
そこで、ここでは、大雑把な仮説から始めて、論理の展開過程で不備や矛盾を訂正していくことにする。

【命題】人は死んだらどうなるか。

【用語の定義】
人:主体としての意識を持ったホモ・サピエンスの個体で、死体ではないもの。
死:新陳代謝機能の恒久的停止、または、焼失等による肉体の消滅。

【命題の再定義】:人間は死によって肉体が消滅した後も、何らかの形で生前の個体単位で存在し続けるか。

第1分類
①肉体の消滅とともに、個体単位での痕跡は全て消滅する。
②肉体の消滅後も、何らかの形で個体単位で存在し続ける。

前者だとすれば:
●意識現象は生理作用の一種であり、肉体の機能停止と同時に消滅する。ただ、その発生機序(メカニズムとプロセス)が未知なだけである。
●したがって霊魂や霊界なるものは存在しないし、輪廻転生も勿論存在しない。
●テレパシーや殺人事件など過去の事実を認知する所謂超能力は、有るとしても生きた人間の未知の能力であって、死後も個体としての意識である霊魂が存在するという根拠にはならない。
●遺伝子や個人的感化、社会的影響などを通じての痕跡はすべて、静的な情報として継承されるに過ぎず、主体としての意識を持った個体としての存続を意味しない。
●過去生が存在しない以上、生まれながらの運不運は、全くの偶然である。
●多生間の因果応報が存在しない以上、生涯における因果応報の法則も恐らく存在しない。
●要するに一切の社会規範は便宜的なもので、自然法則としての善悪の区別は無い。

これらから得られる結論は、生きるも死ぬも殺すも助けるも勝手だということである。
殆どの宗教家は否定するだろうが、その方がすっきりしていて好ましいと言う人もいるだろう。因みに禅宗では、魂の入れ替えは無いと言って単純な子供だましの輪廻転生論を否定しているが、過去生(前生)や将来生(後生)を通貫する「因果の道理は豪釐(ごうり)もたがわざるなり」として、生死に依存しない自己の存在(業)を示唆している。

これだけの理由で①を棄却するのは、いささか乱暴の謗りを受けそうであるが、ここでは一旦、仮の結論を①には疑問ありとして、②の可能性を考察することにしたい。

後者②だとすれば: 
人は死んだらどうなるか(その3) につづく 

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