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2014年7月20日日曜日

恩師、臣・大石泰彦の死

ゼミの恩師がこの1月に亡くなり、ゼミの先輩(万年ノーベル賞候補の根岸隆東大名誉教授、安倍さんのブレーンを勤める浜田宏一エール大学名誉教授、・・)が発起人になって11月に偲ぶ会をやることになりました。

今年の1月、92歳で没した恩師大石泰彦先生は、マルクス経済学全盛時代の東大経済学部にあって、舘龍一郎教授と相携えて、近代経済学への大転換を成し遂げ、数多の学者を、育て上げた名伯楽ですが、大分県中津の出身で、旧制水戸高校で青年時代を過ごした硬骨漢でもあり、年賀状の返信に、「臣泰彦」と記すことが良く有りました。

経済学部同窓会誌「経友」で先輩が紹介していた文章の抜粋です。

「・・それにしてもこの一年の変わりようは大変なものであった。昔そだちのわたくしにとって、なんといっても類を絶した最大のことは、昭和天皇の崩御であった。年あらたまって間もおかずおなくなりになられ、以後、数ならぬ身のわたくしも、一月二十九日殯宮伺候の儀に参するをゆるされ、そして二月、あの寒い日に御柩をお送り申し上げて、わたくしをとらえたあの、昭和は終った、という心からの実感をどう表現したらよいのであろう。・・(以下略)」 

彼は、この引用の後に続けてこう書いています。
・・これは殆ど「臣・大石泰彦」による真情の吐露といってよいのではないか。私はこの悲痛な文章を読んだ時、直ちに夏目漱石の「こころ」の主人公「先生」の次なる告白を連想したのである。
「・・すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったやうな気がしました。・・(中略)・・それから約一ヶ月程経ちました。御大葬の夜私は何時もの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。わたしにはそれが明治が永久に去った報知の如く聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。」
明朗闊達で活動的な我々の先生と、沈鬱、内省的な「高等遊民」たる「こころ」の「先生」(その背後に居る実在の漱石)とは、全く対照的な性格の持ち主であるのに、80年の時を隔てて書かれた右の二つの文章の間の驚くべき類似性は、一体何を物語るのであろうか?

以下は、私の参考意見です。
元々、女官と公家達の強硬な抵抗を退けて、宮中改革を断行し、お飾りだった天皇を、真の英明君主に育て上げた日本近代史上最大の功労者は、西郷隆盛であり、その死後も西郷との約束を果たすべく明治天皇を守り続けた山岡鉄舟でした。
鉄舟は、浅田次郎の日経連載小説、「黒書院の六兵衛」 のモデルと思しき人物です。
http://byoshonikki.blogspot.jp/2013/04/blog-post_17.html

1 件のコメント:

  1. 因みに、大石先生の文章の中で使われている「数ならぬ身の・・」という句は、鉄舟が明治天皇から見舞いのワインを下賜されたときに詠んだと言われる歌にも使われています。
    http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/8001/
       数ならぬ 身のいたつきを 大君の
       みことうれしく かしこみにけり 
    これは、天皇の前では、自分など取るに足りない存在であるという気持ちを表す常套句だったのでしょうか?

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