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2013年11月13日水曜日

日経"寸評"欄の道徳教育論・・全く同感!

たいてい何かしら気に入らない意図を感じるのだが、今回は全く同感である。
道徳教育が大切なのは論を待たないが、教科化には無理があるという論旨に同感する理由は、私自身の体験にある。

中学生の頃だったろうか、我が家では夕食後、(続く)

(再開 2013.12.4)
父と2歳上の兄、それと私の3人で古今東西の故事について話し合った時期がある。
殆んど忘れてしまったが、ある日、父が小学校時代、祖父と問答したときの話だけは、はっきり覚えている。
父 「先生が、西郷隆盛の "人を相手にせず、天を相手にせよ" という考えは、間違っている。世の中は人間関係で成り立っているのだから、・・と言われたが、自分は西郷さんの言う方が正しいと思う。お父さんはどう思うか・・・」
祖父 「西郷さんの方が正しい。 しかし、今お前にその理由を話してもわからないだろうから説明しない。 お前が大きくなった時、分かる人間になればわかるだろうし、そうでなければ一生わからないだろう。」

要するに、祖父が言いたかったのは、人の器と人生観は教えられないと言うことだったのだろう。
父は、「今なら私にも判るが、そのときは判らなかった。 お前達がどう思うかは、お前達次第だ・・」
と言って、その話は終ったと思う。

74歳になった今の私には、父の言ったことが、納得できる。 しかし、祖父がその先、どのくらい深い意味でそう言ったのかは推測の域を出ない。

以上が、寸評子の論旨 "道徳教育が大切なのは論を待たないが、教科化には無理がある" に同感する所以である。

強いて難をあげれば、だからこうすべきだという主張がはっきりしないことであるが・・・。
そこで、寸評子に代わって私自身の意見を述べておきたい。
(続く)

1 件のコメント:

  1. 続く・・と書いてから1年以上経ってしまいましたが、未だに頭が整理出来ないので、取敢えず、FBでのコメントをそのまま転記させていただきます。

    ネット上には声高に道徳を叫ぶ人が沢山出てきましたが、大抵は独りよがりの浅薄な主張ばかりです。道徳と言っただけで、右翼だの軍国主義だのと非難する人の病的心理も問題ですが、道徳を説く資格の無い人が道徳を叫ぶのも困りものです。どちらも所謂 "自己中" であることに変わりありません。
    お互いに喧嘩させてバランスをとるのも、大人の社会では良いかも知れませんが、振り回される子供達はたまったものではありません。白けるか染まるか、良くて精々こましゃくれた子供が出来上がるだけで、いずれにしても良い子(勇敢で優しい頼もしい子供)には育ちません。
    結局、親がしっかりするしかないというところで、60年間、立ち止まったままです。

    では、親は何を以って拠り所とするか?
    世のため人のために一身を投げ打った人物たちの中から、自分が共感できる人を範とするしかないというのが、当面の回答です。
    釈迦やキリストも良いでしょうが、脚色が多すぎて私には現実感がありませんので、実感を持って範とする気持ちになれるのは、西郷隆盛と山岡鉄舟 だけです。しかし、実際、彼らに会ったわけではありませんから、飽くまで私の心象風景の中に、折に触れて出現する虚像です。

    因みに禅宗では、修行僧に対して、座禅の最中に釈迦が現れたら釈迦を殺せ、達磨が現れたら達磨を殺せ、と言って妄想に安住することを戒めているそうですが、隆盛や鉄舟 を殺せない私のレベルはその程度だということでしょう。祖父は若い頃から、父も最晩年にはそれが出来たようです。

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