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2013年8月25日日曜日

二人の知事・・生き永らえた泉守紀と殉職した島田叡

・・・大東亜戦争中、誠心誠意、職務に殉じた人たちと、一方、戦地では部下を見殺しにし、国内では同朋の苦闘を傍観していた卑怯者がいた・・・実例を紹介します。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-809.html

以下は上記ブログの抜粋です。

・・・・・・・沖縄戦では、約十万人の沖縄県民の死者を出しました。

しかし、ひとつはっきりといえるのは、それだけの損失を出した原因のひとつに、沖縄県民の疎開(避難)を、人質に、自分だけが助かり、いい思いをしたいという卑劣漢がいた、ということは、忘れてはならない事実だと思います。

泉という前任の沖縄県知事が、故意に住民の避難を遅らせたために、沖縄には、多数の高齢者や婦女子が残り、さらに沖縄が離島を多く含むために、第三十六軍は、ただでさえ少ない戦力を、それぞれの島に分散する他なくなった。

加えて、沖縄本島を含め、それぞれの島の住民の避難誘導や食糧・水の手配、あるいは戦傷を負った民間人への手当て等、軍は、そのための要員を大量に割かなければならなくなった。
それら一連の諸問題は、泉守紀という小役人のボンクラが引き起こした問題です。

一方、後任の島田知事や第三十六軍の将兵は、そうしたボンクラのしでかした最悪の事態について、最後まで愚痴も文句もいわず、死力を尽くして戦い、散華された。

いまどきのマスコミ関係者、反戦平和主義を叫ぶ市民団体等は、非戦闘員が日米両軍の地上戦闘に巻き込まれた全責任を、日本軍(第三十二軍)のせいにしようとしています。

けれど、これは間違いです。
約十万人の沖縄県民を死に至らしめた全責任は、疎開を故意に遅らせた泉沖縄県知事にある。

泉沖縄県知事の問題を出すと都合が悪いのです。
なぜかというと、泉知事の問題を出すと、当然その後任の島田知事の話題が出る。

島田知事は、軍と連携を密にして、沖縄戦の最後の最後まで、県民の保護のために尽力された。そして島田知事と親交のあったのは、大田実海軍少将であり、牛島満陸軍中将であった。
そうなると、いきおい、彼らがいかに立派に最後まで戦ったのかという話になってしまう。
・・・・・
島田叡

島田の亡くなった最後の壕は、「轟の壕」です。最後の沖縄県庁という呼び名もあります。
昭和20(1945)年7月9日、島田の殉職の報に際して、安倍源基内務大臣は、行政史上初の内務大臣賞詞と顕功賞を贈りました。

「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」

内務大臣が一知事に対して賞詞を授与することは、これが最初で最後の出来事です。
いまでも、高校野球の夏の沖縄県大会を制した高校には、「島田杯」が授与されています。

1 件のコメント:

  1. 陸軍第32軍司令官として沖縄戦を戦い、現在、「沖縄県慰霊の日」とされる65年前の­6月23日に自決した牛島満大将。苛烈極まる激戦の中にあってひたすら国を思い、部下­や県民に慕われた人柄に、従軍看護婦として身近に接する日々を過ごされたという伊波苗­子さんに、摩文仁洞窟内での最期の様子も含め、貴重な証言を伺った特別番組だそうです。
    http://youtu.be/NmKE_AE58C8

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