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2013年4月17日水曜日

江戸城無血開城・・的矢六平衛の目的は何だったのか?

この10日あまり、固唾を呑んで最後のどんでん返しを期待していたが、結局、無理のない象徴的な幕切れとなった。
これ以上書いたら確かに史実に抵触し、物語り全体が空疎なものになってしまったろう。
徳川幕府300年の武士(道)に対する憧憬と惜別の辞として、多くの読者の胸に忘れがたい余韻を残したに違いない。 

しかし、的矢六平衛の行動は一体何を象徴していたのだろうか。
それは、単なる禅譲の儀式などではなく、若き明治帝を真の武士道の継承者にしたことを意味すると考えるのが妥当だろう。
そして、史実によればそれを実際に成し遂げたのは、西郷隆盛と山岡鉄舟の二人だった。
余談だが、薩摩屋敷での西郷との会見に臨んだ幕府側使者団に海舟の名はない。
同席したことを示す記録もない。海舟自身が"氷川清話"の中でそう語っているだけである。
さらに言えば、無血開城において、勝が果たした役割は、徳川慶喜→高橋泥舟→山岡鉄舟で決断した策を承認し・支援しただけである。 
維新後の論功行賞で鉄舟が何も申請しないので、その理由を聞かれ、"勝さんが自分がやったと書いているのに恥をかかせることになるから" と言ったのは有名な話だ。
もちろん、勝もそのつもりでいろいろ画策していたはずだから、嘘を書いた心算はないだろう。
しかし、使者を決めかねて、思案に暮れているところへ現れた山岡という初対面の旗本が、只者ではないことを見抜き、渡りに舟と飛び乗ったに過ぎない。 その辺が海舟のずるいと言うか要領の良いところで、"・・・名もいらず" という鉄舟とは対照的である。
尤も、海舟は生涯、西郷と鉄舟に対する賛辞を惜しまなかったし、西郷も鉄舟も元々名利に関心のない人達だったのだから我々俗人があれこれ論うのは控えるべきだろう。 
特筆すべきは、二君に仕えずと言って新政府への任官を固辞していた鉄舟を説得して10年間(明治5-15)の約束で明治天皇の侍従に引っ張り出したのは、西郷であったということだ。
若しこれが無かったなら、明治天皇は、維新の元勲と称する野心家達の権謀術数に振り回され、ドナルド・キーンが大著「明治天皇」の中で賞賛しているような、仁慈と慧眼を併せ持つ不世出の帝王にはなり得なかったろう。
そう考えると、史上類のない偉業を成し遂げ、江戸、ひいては日本、さらに非白人諸国を救った真の功労者は、西郷隆盛と山岡鉄舟の二人であったと言わざるを得ない。 
一方、機を見るに敏な海舟は、枢密院顧問という政府の中枢にありながら、征韓論、西南の役を巡る権力闘争には距離を置いて沈黙を守っていたが、西郷が征韓論の濡れ衣を着せられ、さらに西南の役で賊軍の汚名を蒙った後は、一転、彼の名誉回復に尽力し、遂には靖国神社への合祀こそならなかったが、私邸の近くに留魂碑を建立しているくらいだから、明治帝と西郷、鉄舟の間に余人には窺い知れない強い絆があったこと、そしてそのことを最も深く理解していたのが海舟だったこともまた疑う余地がない。
氷川清話によれば西南戦争の間、勝は旧幕臣の暴走を抑えるため水面下の工作に奔走していたそうだ。 
因みに西郷は征韓論など唱えたことはなく、自ら渡韓し、烏帽子・直垂の礼装で朝鮮王朝の顕官と会見し、西洋列強の前で東洋人同士が相争っている余裕はないことを訴えると言っただけである。
まさに、鉄舟が単身、駿府へ赴いたときと同じことを自ら朝鮮政府を相手にやろうとしたのだ。
それを、恰も軍勢を引き連れて朝鮮征伐に乗り込むかのように喧伝し、征韓論者に仕立て上げて追い落としたのが維新政府の野心家(実は征韓論者)達で、彼らの本音は西郷の追い落としと天皇の傀儡化、そして朝鮮国内の反日勢力の温存による征韓論の正当化だった。 
もし、西郷の渡韓が実行されていたら、朝鮮王朝が我が国を見る目も少しは変わっていたろう。 朝鮮王朝の中枢にも、国際情勢に通じた具眼の士はいたはずだ。
しかし、彼らと雖も我が国が礼を失した態度で臨んだため、朱子学の礼式に拘る朝鮮国内の侮日世論に同調せざるを得なかったに違いない。
その限りにおいて、今日に至る韓国の反日歴史認識の元凶は彼等明治維新政府の野心家達だったと言っても過言ではない。 
これを機に西郷は野に下るが、元々彼に野心など有るはずも無く、その後に起きた西南戦争も政府転覆を企図したものなどではなく、政争に明け暮れるばかりでなく、天皇をつんぼ桟敷において国政を壟断し始めた元勲達への死を賭した警告だったと考えるべきだ。 
しかも、この間の天皇や勝、山岡の言動には西郷の真意に対する疑念は全く無かったばかりか、むしろ、お互いの立場で相呼応した行動を取っていた節すらある。
このことに関して直接言及した資料は寡聞にして知らないが、幾つかの資料に見える彼らの言動が、そう考えることによって矛盾無く理解できることは確かである。 彼らの到達した無私の人格は、いわゆる先進諸国のヒューマニズムや漢民族の倫理道徳の概念を遥かに越えている。
明治以来何人かの日本人が禅や武士道を英語で紹介してきたが、彼等自身の理解の水準がその域に達していない上、西洋人に迎合した子供だましの解説しかしていないので、未だに幕末の傑出した日本人の想像も付かない精神性が世界の常識になっていない。
それどころか、当の日本人からも忘れ去られようとしている。 
最近では、村上春樹のバルセロナ演説が持てはやされているが、新渡戸稲造を超えたとは思われない。
三島由紀夫が欧米の作家達に説明しても理解されないことに絶望した理念の遥か手前で、”西洋人向けの日本人論” を語っているだけである。
要するに、現代国際社会における”世界認識” の西欧流デファクト・スタンダードが余りにも単純すぎて明治期までの傑出した日本人の ”世界観” を理解できないのだ。 
サミュエル・ハンチントンが、「文明の衝突」 において世界の七大文明の一つに、日本文明を掲げた理由を訝る向きが多いが、彼の該博な学識と洞察力は、日本社会の核心に他のどの社会の基準でも量れない何物かが存在することを見抜いていたのだろう。
私も、長い間、このことをどうやって世界の常識にしたものかと思案してきた。
しかし、どんな外国語の達人が解説しても、彼らの言語で語っている限り、不可能だと言うことに気が付くのに左程時間はかからなかった。要するに、彼らが自ら禅や武士道を日本語で学び、実践するしかないと言うことだ。
なにしろ鉄舟自身が禅は難しいからと言って周囲には勧めず、夫人にも浄土宗を勧めていたというくらいだったのだから。
日本精神が理解されない理由・・・それその特殊性にではなく、その普遍性にある。
2013年2月25日月曜日の日記 「人生の最終章を迎えて改めて思うこと」 の中で 「人類における最も深遠な思考が英語で語られていると言う証拠があるなら是非見せて欲しい・・云々」 と書いた所以である。 
的矢六平衛と共に失われたものが如何に大きかったか、思い半ばに過ぎるものがある。

4 件のコメント:

  1. 海舟が西郷の名誉回復に尽力したことは、事実ですが、靖国神社への合祀を実現したというのは、思い違いでした。
    どうも、靖国神社側の説明には神道本来の性格と矛盾する点が多々あり、首尾一貫しません。
    政府や首相の説明も、英霊に誠をささげると言うかと思えば、全ての戦没者を慰めるといってみたりで、誠に動機不純です。
    国家神道ならはっきりそう言って、帝国陸海軍軍人に限定すればよいし、日本古来の死生観にもとづく鎮魂の場だというなら、白虎隊士や西郷隆盛らも合祀して然るべきです。
    それを変に誤魔化すから首相の参拝が問題になるのです。
    靖国神社側の姿勢は、明らかに大日本帝国軍人の慰霊社の立場です。それを、そうでないかのように言い訳しながら首相が参拝すれば、戦勝国としては文句の一つも言いたくなるというものです。
    ドイツのホロコースト史観と同じで、戦勝国と真っ向対決する覚悟で英霊顕彰の儀式に格上げするか、何処からも文句のつけようの無い全ての戦没者に対する鎮魂の儀式にするか、腹を決めるべきでしょう。
    それにしても、靖国神社の言い分には説得力が無さ過ぎます。
    国民感情なるものをダシにした既得権擁護の臭いがします。
    昭和天皇が親拝を止めたのは、戦勝国への配慮もあったでしょうが、それ以上に、つい昨日、民族絶滅の危機に瀕したことをすっかり忘れて浮かれている自称愛国者達の軽率な振る舞い(軽挙妄動)が腹立たしかったからでしょう。

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  2. 鉄舟が西郷のたっての要請を受けて明治天皇の侍従として、仕えたのは、明治5年から15年の10年間ですが、5年目の明治10年には、西南戦争が起き西郷は賊軍の将となります。
    このとき、鉄舟は新政府からの要請を受けて西郷の説得に赴いたとされていますが、両者が会見したという記録は無いそうです。
    しかし、鉄舟が茨城県や伊万里県の県令として現地入りした際の意表をつく隠密行動や、駿府会談以来の薩摩人士との厚誼を考えると会いもしないで引揚げたとは到底考えられません。
    元々、西郷が決起した理由が、天皇を蔑ろにして国政を壟断する岩倉具視らに対する警告だったことは、山岡にとっては(明治天皇にとっても!)自明だったはずですから、説得などする意思は始めから無かったでしょう。
    西郷亡き後、いかにして天皇の主体性を守り抜くかを語り合ったと考えるほうが自然です。
    だとすれば、これは新政府から託された任務とは裏腹の反逆行為ですから公式記録など残っている筈がありません。

    以上は、あくまでも私個人の推測です。
    しかし、鉄舟が、西郷亡き後も、侍従職を務め、西郷と約束してから10年経った明治15年に致仕したという事実は軽く見るべきではないでしょう。
    先にあげた2県の県令を引き受けるに当っても、大久保利通に対して、問題を解決したら辞めさせてもらうという条件を付け、一月も経たないうちに解決のめどをつけて、辞意を申し出ているような人物ですから、10年後に致仕を申し出たということは、単に約束の期間が過ぎたからということではなく、その間に約束の任務を果たしたからだったはずです。
    約束の任務とは、天皇の養育係、つまり、(明治)天皇を英明な君主に育て上げるという大役でした。

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  3. 西郷隆盛や山岡鉄舟は、世界を見ていないが、勝海舟や大久保利通は、欧米を見ているというような浅薄な見方する人達がいます。この手の、自称国際派ほど、外国人の日本理解をゆがめてきた者はいません。
    それは、日本文化の粋と言われる物が、常に外国の一流の知性によって”発見”されてきたことを指摘すれば足りるでしょう。
    鉄舟についても、言いたいことは山ほどありますが、ここでは、一つだけ、中学生の頃、亡父から聞いた話を紹介します。
    遣欧使節に随行する大久保利通から、同行を勧められた鉄舟が、答えて曰く、「人間は何処へ行っても同じです。よく見ておいでなさい。」
    鉄舟には、西郷との約束、明治天皇を世界に通用する英明君主に育て上げるという途方も無い責務があったのだ。それは、大久保ごときが、列強視察の大役などと言って浮かれていた次元の仕事ではなかった。

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  4. 遣欧使節について言えば、鉄舟と共に西郷の推挙で明治天皇の侍従となった村田新八は、西郷からも大久保からも後継者として最も嘱望されていた薩摩藩随一の英才で、視察団帰国後も英国に止まり、数ヵ月後に帰国した西洋通でしたが、帰国後、西郷が下野したことを知り、その真意を確かめるため薩摩へ戻り、ついに、大久保の元へ帰還することは有りませんでした。
    http://washimo-web.jp/Report/Mag-MurataShinpachi.htm

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