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2012年3月1日木曜日

宮沢賢治との時空を超えた縁

一昨日の日経夕刊 "明日への話題" 欄で、住友信託銀行相談役の小山温氏が、昨年3月の東北大震災以降、国内外で宮沢賢治が注目され、「雨にも負けず」 が英訳版も含めて紹介される機会が増えた。と言う趣旨の寄稿をされていたのを読んで、突然、今まで書き忘れていたことを思いだした。

多分、大抵の日本人は、彼の名前くらいは知っているだろう。 早世した妹トシへの挽歌 「永訣の朝」 は知らなくても、「雨ニモ負ケズ」 の詩は、教科書にも載っているので 国語の時間に習った人が多いと思う。
また、彼が 法華経 を座右においていたことも、よく知られていることで、わざわざ此処で書くまでもない。

私が、是非ここで書き残しておきたいのは、彼の人生観の根底には、"" が(だけだったとは言わないが)あったということである。 私がそれを知ったのは、昭和42年(1967)10月に父が他界した後、母が桐生の家を引き払って東京の兄の家に移ってくる前後のことだったと思う。

生家に残されていた書籍類の中に、祖父が生前師事していた 曹洞宗原田祖岳老師 が拠点とした 福井県発心寺 の機関紙を見つけ、パラパラと捲って読むともなしに見ていたところ、その機関紙(名前が思い出せない)を宮沢賢治が購読していたこと、さらに何度かは知らないが寄稿していたことが記されていたのである。

果たして賢治がどこまで原田老師に私淑していたかは、知る由もないが、理論倒れの仏教学者たちに愛想を着かして駒澤大学教授の地位を捨て、一方、形骸化した永平寺の公案禅にも飽き足らず、発心寺を拠点に全国行脚していた原田老師に教えを請い、参禅した可能性は否定できない。

因みに、亡父が祖父から聞いた話によると、老師は、アインシュタインの相対性理論の登場に接し、これからは、科学者に "禅理" の解明を期待すると言っていたそうだ。 また随一の高弟と目されていた 安谷白雲老師 は、70歳を超えて尚、米国での "禅" 普及活動を続けていた。

二十歳前後の書生時代に、藤村操の死をめぐる論争に疑問を持ち、黒岩涙香に面会して議論を挑んだと言う 祖父 が、聖書から西洋哲学、果ては老荘思想にいたる遍歴の末、最後に廻りあった知行合一の傑僧に賢治が何の影響も受けなかったとは到底思えない。

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