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2010年4月16日金曜日

兄妹3人・・We are three!

誰でも生きているうちに言っておけばよかったと後悔することがあるものだ。
父や母に対しては、たいていの場合、間に合わない。
しかし、自分が親になってみればわかることだが、親が子供に何かを期待するのは煩悩にすぎない。
仮に子供が不孝者だったとしても、まともな親は悲しむことはあっても子供を恨んだりはしない 人生を感情だけで判断することは許されない。親には自らの選択で子供を作った責任というものがある。
(自らの意思で相手を選んだといえば、妻や夫は、その最たるものだが、これは、同じ縁でも次元の異なる縁だという気がするので、別に述べたい。)

また、兄弟や子供達も、生まれるかどうか、さらに、どのような親兄弟を持って生まれてくるかを選ぶことが出来ない。では、それを親の責任に帰することができるかといえば、それで片付く問題でないことは、まともな人間ならすぐわかることだ。

中には、恨みたい親兄弟(姉妹)もいるだろうし、謝りたい親兄弟(姉妹)、さらには、感謝したい親兄弟(姉妹)もいるだろう。親に対する後悔は、その昔から先に立たないのが通例だから諦めるとして、せめて兄弟(姉妹)に対しては人生のスタートから行を共にした伴侶として恩愛を超えた感謝の気持ちを伝えておきたいと思う。

私の場合、それは、二つ年上の兄と三つ年下の妹である。

兄は、父親が死んだ後、病身の母と妹を引き取り、まさに親代わりとなって、私には一切負担をかけずに面倒をみてくれた。私は、何も出来なかったが、いざという時は、運命共同体としていつでもとって代われるようにという気持ちだけは持ち続けてきた。妻子を持ってからは、その余裕も無くなり心苦しい限りだが、今回の病気入院を機に、これが自分の限界ならば潔く受け入れるしかないと思うようになった。
所詮、生涯、家長としての兄の恩義に甘えさせてもらうことになりそうだ。

妹とは歳が近かったせいもあり、特別の思い出が沢山ある。
あまり沢山ありすぎて、何から話せば良いのか判らないくらいだ。
生まれながら心臓の隔壁に穴があり、そのため血中酸素が不足して少し運動しただけで息切れする体だったが、それが判ったのは 50歳を過ぎてからであった。
もちろん、その間手を拱いていたわけではなく、中学生になった頃から幾つもの大学病院で、それこそ死屍に鞭打つような検査を受けたが、眩暈と息切れ、手足の痺れと空咳等の症状から心臓隔壁の欠陥を指摘してくれるところはなかった。それが判ったのは、いつも通っていたT病院の担当医が定年退職し、替わって担当することになった非常勤の女医(大学の先生とか)の初診のときだった。彼女は 「こんな初歩的な誤診は考えられない。医療過誤で訴えるなら協力します。」 とまで言ってくれたそうだ。
すでに60歳に近く、痩せ細り気力・体力の限界に達していた妹は、自分のそれまでの苦痛の訴えが決して我儘からではなく、心臓畸形のためだったことが判っただけで (その結果、家族の本当の理解が得られただけで) 十分だと言って、年老いた医師 (誤診しただけでなく気が付いた後も隠していた) を深追いしようとしなかった。

5歳の頃の妹は、普段、赤い着物を着て遊んでいたが、不細工な私と違ってまるで日本人形のように可愛らしかった。
我々が、強制疎開で空き地になった広場で ビー玉遊びをやっていたときのことだ。そばの縁石に腰掛けて弁当を食べていた2人の米兵が妹に向かって手招きするので、みんな何だろうと思って見ていると、妹がやっと抱えるような大きな缶詰らしいものを渡された。
戦後で碌なものも食えず、ひもじかったとはいえ、決して乞食のように恵んでもらうことなど考えず、角の牧田のおじさん(元陸軍の研究者でいつも米兵が立ち寄っていた)に教わった片言の英語で Have you any chewing gum? などとやって、皺くちゃの一円札と交換していた我々は、突然の米兵の行為(好意?)にびっくりした。
慌てて町内の床屋(岩折さん)に持ち込み、客の大人たちに件の缶詰の中身が何だろうと聞いてみたが、英語の読めるものが1人も居ず、若しかすると爆発するかもと言いながら、缶切であけてみると真っ赤などろどろした液体が詰まっているのが目に入った。
みんなこれはきっと人間の血だと言って気味悪がり、下水に流してしまったが、今思えばあれはきっとトマトジュースだったのだろう。そのときは気味悪がったものの、60年後になって気持ちが伝わるのだから、あの時の若い(恐らく10代の)米兵の好意も決して無にはならなかったということだ。

10~12歳の頃の妹は、背も高く華やかで、学年でも目立った女の子だった。
家計に余裕が無かったのでピアノが買えず、桐生で1軒しかない楽器店(紋谷さん)からレンタルで借りたオルガンで練習していたが、これも市内で唯一のピアノ教師であった紋谷姉妹からこれまで教えた生徒の中では、斉藤昌子(義理の叔母の従妹)さんとお宅の泰代さんが一番上手だと褒められた。
実際、西小学校の講堂で開かれた発表会を覗いた兄の友人も吃驚していたのを思い出す。

中学・高校時代の妹は、155センチを限界に成長が止まり、(心臓の負担能力以上には成長できない と言うことが判ったのは40年以上たってからだ。)体育の授業も見学することが多く、可哀想だったが、それでも健気に大学へ進学した。高校時代の女性の数学教師に憧れたとか言っていた。

とくに忘れられないのは、私が東大に合格した時、それまで1人で桐生の外に出たことの無かった妹が、前橋まで行って、全音階(半音を含めて!)が出せるハーモニカ を買ってきてくれたことだ。
ピアノもバイオリンも出来ず、小学校で習った木琴とハーモニカしかやれない私が、日頃から、「桐生には半音の出せるハモニカを売っている店が無い」と嘆いていたのを知っていたからだろう。
このハーモニカのお蔭で、それまで、旨く吹けなった世界名曲集のすべての曲を吹奏できるようになった。その後、幾つかの弁が欠けてしまい、使えなくなってしまったが、今でもケースに収まったまま、すぐ後ろの本棚においてある。


大学時代の妹は、『喫茶店でのお喋り』 など、大学生活の楽しみとは無縁の毎日を過ごしながら、必死の思いで卒論を書上げ卒業した。
このときのテーマは確か、東北王朝に関するもので、苦しい体を押して東北大学の有名な教授に面会までしてきたと言う。
私も資料集めを手伝い、定説に一部反論を試みる構想作りに協力した。今でも、その時、東大図書館で集めてきたマイクロフィルムのコピーが手元にある。
これも、すぐ後ろの本棚においてあり、私にとっては、全音のハーモニカと共に一生の宝物である。


妹に謝らなければならないことが、沢山有るがわざわざここに書かなくても本人にはわかっていることだと思うので敢えて書かないことにする。

高校時代の英語の教科書に William Wordsworthの詩で"We are seven!"というのがあった。

Wordsworth, "We Are Seven" - English Poetry in Japanese


これに倣えば、私たち兄妹は、いつも "We are three!" である。

2 件のコメント:

  1. 2015年6月8日月曜日
    6月5日の夕方、兄から妻に電話があり妹の死去を知りました。
    http://byoshonikki.blogspot.jp/2015/06/blog-post.html

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  2. "We Are Seven" by William Wordsworth (read by Tom O'Bedla
    https://www.youtube.com/watch?v=6D7Rc52RX3k

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