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2010年12月31日金曜日

年納めの大失敗・・・薬の飲み違い!

昨日もそうだったが、寒さの所為か、どうも気分が優れない。 それでも昨日は、何とか散歩に行ってきた。
しかし、今日は、更に体調が悪化し、1キロ先の「けやき通り」まで辿り着いたものの、目と鼻の先にあるドトールコーヒーやデニーズで一服する元気も出ず、道端の陽だまりに腰掛けて一休みして、そのままとぼとぼと引き返してしまった。
家に帰ってから、流石に連日の遠距離往復の疲れが出たか? と店で飲み損ねたコーヒーを飲みながら、ふとテーブルの上にいつも置いてある飲み薬のケースを見て、しまった! と気がついた。 昨日から、ここ数週間前から控えていた降圧剤を精神安定剤のつもりで飲んでいたのである。
今まで回数はともかく、種類を間違えて飲んだことは殆どなかったのに、ここのところ調子が良いので気が緩んだのだろう。 油断大敵とはまさにこのことである。 日頃、兼好法師の例の段、「高名の木登り」 を引き合いに出して注意を怠らないよう心掛けていたつもりなのに、それでもやってしまうところが油断大敵の油断大敵たる所以・・・。 "論語読みの論語知らず" とは、将にこのことである。
というわけで、冴えない年納めとなった。

2010年12月30日木曜日

散歩の行き先・・・どの店にしようか?

散歩コースとして1キロほど先のスーパーへの往復に挑戦し始めてから1月あまり経つが、最近はさほど苦痛を感じない日が多くなってきた。 医師の許可が下りて精神安定剤を就寝時だけでなく、昼間も好不調に関係なく服用できるようになったこともあるが、毎日、日課として散歩しているうちに体調が整ってきた所為もあるのではないかと思っている。

そうなると今度は、いつも同じコーヒーショップでは意欲がわかなくなってくるので、最近はその近辺のファミリーレストランに行き始めた。

いずれも、湘南ライフタウンのメーンストリート 「けやき通り」 に面している。
これまでに開拓した店をあげると・・・

ドトールコーヒーショップ 湘南とうきゅう店(年寄りばかり・・・人のことを言えた義理ではないが)

カルダン湘南ライフタウン店(比較的上品だが私のお小遣いでは一寸抵抗あり)
サイゼリア藤沢大庭店(女子高生が賑やか・・・と言うより五月蝿い)
デニーズ湘南ライフタウン店(客層も多彩だがまともな雰囲気・・・店長が良く目を配っている)

昨日、デニーズを出るとき、3歳くらいの男の子が何度もバイバイと声をかけてくれた。
今の所、デニーズが気に入っており、今日、電子マネー [ナナコ] を発行してもらった。
私も歳をとったなぁ・・・
同じ「人生の最終章」でも、畏友片山君とは大違いか!

2010年12月27日月曜日

既視感?・・・娘のBLOG と "リリー・マルレーン"

21日(火)の日記に、私の娘が正岡子規の妹の律さんに共感しているらしいと書いたが、ついでに娘のBLOG を覗いてみた。 その中に 2010.10.3 付けの日記で "漁師町の、かくれたスタインウェイ" というタイトルの記事があり、内容も悪くはないのだが、前からそのタイトルが気に入っていた。 それもただ気に入っていただけではなく、ずっと前からどこかで聞いたことがあるような気がして仕方なかった。 ここのところ益々激しくなった既視感のせいかと思っても見たが、どうも何か引っかかる。
いつもこういうときは、ベッドの中でうつらうつらしているうちに、突然、はっと気がつくのだが、今回もやはりそうだった。 第2次大戦中の欧州戦線で、敵味方を問わず大ヒットした愛唱歌、と言えば言わずと知れた例の "リリー・マルレーン(Lili Marleen)" 、その公式サイト(ドイツ語) の解説で読んだことがある・・・

「リリー・マルレーン」は、第一次大戦に従軍した詩人ハンス・ライプが東部戦線に出征する直前に書いた詩集 「港の小さなオルゴール」 の中の一編・・・

この 港の小さなオルゴール」 というタイトルの持つ哀歓と 「漁師町の、かくれたスタインウェイ」 という言葉の響きが共通する感興を呼び起こしたに違いない。 もちろん、娘は、"リリーマルレーン" も知らなければ、まして 「港の小さなオルゴール」 などという詩集のタイトルなど知る由もない。

2010年12月21日火曜日

子規と漱石≒子規と律?

チョコだらけ・・・

ピアノと英語を教えている娘が、投げてよこした上の句だが、後が旨くつながらない。 娘は目下、正岡子規の漱石に対する忌憚のないこき下ろしの句評(「病床六尺」に書いてある?)を面白がっており、多分それに刺激されて、冒頭の上句を思いついたらしい。(実際は、『妹の律に筆舌に尽くしがたい世話になりながら、悪口ばかり書き残して逝った正岡子規の口振りが、妻子に同じような苦労をさせながら文句ばかり言っている私とそっくりだ』 という議論を交わしたのがつい先日のことだから、ようやく天邪鬼の扱い方に慣れてきたのかも知れないが!)

それはともかく、いろいろ下の句を付けて答えてもけんもほろろにこき下ろされるので、なかなか手ごたえがあって気晴らしになった。 と言ってもまだ依然として駄目なものは駄目というレベルを脱したわけではないが、一応休戦状態にある。

例えば、

チョコだらけ・・・一つ食う毎 頭痛減り     酷評(こじつけ?)
(ここの所、娘が偏頭痛を訴えていたので)

チョコだらけ・・・いつの間にやら 空になり   酷評 (子供っぽい?)
(娘が、つい食べ過ぎちゃうとこぼしていたので)

チョコだらけ・・・食べた数より 残り減り    酷評 (品がない?)
(妻が、よく食べるので)

チョコだらけ・・・またまたお歳暮チョコばかり  無言(くどい?)
("だらけ" と "またまた" が呼応している・・・自画自賛)

ここのところ、娘は律に大いに共感を覚え、励まされているらしい。 と同時に、あれ程の親友である漱石の句に対する酷評を読んで、律に対する悪口もその類だと、ある程度、納得したのかもしれない・・・と思うのは私の独りよがりか・・・。

余談だが、巷間では、律を世に出したのは「仰臥漫録」という闘病日記であり、そこには、子規の妹に対する深情が吐露されていると言われている。 私もそのことに異論はない。 しかし、この2年間妻子の看病を受けながら、つくづく思ったのは次のようなことである。

「果たして律さんは世に名前が出ることを望んでいただろうか。 恐らくそうではあるまい。 ただ兄の喜ぶ顔を見たかっただけだったに違いない。 その意味では、子規は死後も律の気持ちを裏切ったということになる。 しかし、死後も人々の記憶に残ること・・・それが悪名であったとしても・・・を人生最大の念願とする多くの男子にとって、自分の一生をかけて尽くしてくれた恩人の名を後世に伝えたいと思うのもまた無理からぬことである。 その結果、律本人の意思の如何にかかわらず、後世、多くの人が励まされるとすれば、子規のやったこと・・・律にとっては傍迷惑で余計なことだったかも知れないが・・・も無駄ではなかったし、律を冒涜するものでもなかったことになる。」
これは、私自身家族や看護師、介護士の世話になるうちに、はたと気がついた事実である。 今後、高齢化社会の中で、これらを生業とする人々が決して忘れてはならないことであろう。

『世の中には名利よりも人助けを生き甲斐とするひとびとがいる。』

男でありながら、そうであるとすれば、聖人というべきであろうし、近世のわが国の歴史にその例を尋ねれば、山岡鉄舟に止めを刺す。

2010年12月11日土曜日

散歩で気晴らしの筈が・・・「燕雀安知鴻鵠之志哉」

体調の如何にかかわらず散歩に出かけることにしてから、かれこれ半月くらいになるが、流石にきつい。1キロほど先のコーヒーショップを目指して行くのだが、店につく頃には疲労困憊し、動悸は亢進するは、足は棒のようになるはで、居ても立っていられない気分になる。 店に入っても暫くの間は、コーヒーにも口をつけず目を瞑って気分の回復を待つようなありさまで、ここのところ数日、家まで辿り着けるだろうかとはらはらすることが多い。もちろん、基本的には、体調自体の良し悪しに左右されるのだが、途中での出来事によって元気が出てくることもあれば、また、その逆もある。 たとえば・・・ 10分程行った所(普通の人なら3分位?)に公園があるが、往復の途時、午後3時ごろまでに行くとよちよち歩きから10歳くらいまでの子供たちが遊んでいることが多い。 小さな子供が遊んでいるのを見るのは、それ自体が楽しいが、この公園で遊んでいる子供たちの場合、見ているこちらの方がはらはらするような場面でも、傍にいる若い母親たちが少しも騒がず、平然としているか、むしろ、叱咤激励する勢いだからである。 ああ、これなら自分たちの子供の頃とあまり変わらないなと安心する。


一方、いつも行くコーヒーショップでの当たり外れは大きい。場所が辻堂駅から慶応SFCへ行く大通りに面しているので、今週のように期末試験のシーズンになると、ノートやプリントと睨めっこしている学生を見かけるが、彼らの近くに席が取れたときは、現役時代、職場の近辺や通勤途中の駅のコーヒーショップで時間潰しをしたときの雰囲気で、大変落ち着く。 何よりも、誰も大声を出したり、のべつ幕無しに喋り続けたりする者が居ないのがいい。


ところが、今日のように、折角、学生たちの近くに席が取れたというのに、一人だけ、馬鹿丸出しのおばさんがいて、必要以上に大きな声、それも品のない声で、得々とくだらない話をしているのにぶつかった時はまったく閉口する。 私を含めて周囲に聞かせたくて喋っているのが見え見えである。 連れのおばさんは、低い声で相槌を打つだけだから、おそらく腐れ縁と諦めているのだろう。 こういう手合いはどこにでもいるが、本人にその自覚がないのだから、どうしようもない。 それでも一票が平等でいいのかと言いたくなる。 件の学生が最初からヘッドホンをつけていたので、最初は、' いまどきの学生は・・・' と呆れていたのだが、彼が上を向いて目を瞑り、じっと耐えている様子を見て、ヘッドホンをつけざるを得ない理由が、やっと判った。 いつもなら、30分もすれば、気分も多少良くなり、帰路につけるのだが、今日は、1時間近く、不快音を聞かされたので一向に回復せず、このまま此処にいたらえらいことになると思い、ほうほうの体で引き揚げてきた。 この間、苦痛に耐えながら、こういう手合いを無視するにはどうしたら良いかを、ずっと考えていたが、はたと気がついた。 昔の人は旨いことを言ったものだ。 「燕雀安知鴻鵠之志哉」  えんじゃく いずくんぞ こうこくの こころざしを しらんや 団塊世代のおばさん族よりも、団塊ジュニアの若いお母さんたちのほうが総じてまともである。ゾンビ世代の終焉も近そうだ。     

2010年11月27日土曜日

どうでもいいことだが

山岡鉄舟の生き方から見ればどうでもいい些事に属するが、最近、世間が騒ぎすぎるのでどうでもいいことが気になって仕方がない。 一つは、自己矛盾だらけの死刑廃止論の横行であり、もう一つは、これまた自己矛盾に満ちた軍事忌避論者の跋扈である。

断っておくが、私が苛々しているのは、死刑廃止論や軍事忌避論そのものではなく、それらを唱える人たちの覚悟と姿勢の問題である。 一つ一つ具体的に説明したい所だが、体調が許さないので、詳細な理由は後日に譲り、ここでは、結論だけを述べておく。

① 死刑廃止論を唱えることは、そうしたければ、いくら人を殺しても良いと主張することである。
② 軍事忌避論を唱えることは、他国民を助けるためなら、自国民を犠牲にしても構わないと主張することである。

以上は、飽く迄も国家・社会レベルの話であり、個人の信念や宗教的教義の話ではない。 従って、個人的にどういう立場を採ろうともその人の勝手だが、一国の首相や閣僚には許されない。 北朝鮮がどうしたのと騒ぐ前に、米中露いずれかの(或いは3国の)核ミサイルが首都圏めがけて発射されようとしている(或いは発射された)ときにどうするかを考えておけと言いたい。 世界中の元首で、就任前に軍事知識を身につけていないのは、ここ30年来の日本の首相だけだ。 そんな阿呆な文官の言うことを聞く自衛隊でないことを祈るのは私だけか。
流石、中曽根元首相は、時の佐藤総理から、閣僚にしてやるから希望を言えといわれ、防衛庁長官を希望し、着任するや早速、現役自衛官と合宿したという。(日経: 私の履歴書) そうでなければ、ロナルド・レーガンが腹を割る筈がない!
(菅総理も、じつはやっているが、わざと馬鹿を演じているのならまことに見事と言うことになるが!)

2010年11月19日金曜日

急性A型大動脈解離からの生還2周年

今日で急性A型大動脈解離(acute type A aortic dissection)から生還して2周年目を迎える。 発症したのが2年前の今日午前9時ごろだったというから、確かに2年前の今朝、丁度今頃、我が家はパニック状態だったのだろう。 だろうと言うのは、私自身に前後の記憶が全くないからだ。 それは前にも書いた。

この間の妻子の筆舌に尽くしがたい辛苦と看病にについても、2010.2.6  看病=菩薩行 に書いた。 改めて妻が主治医に言ったという 『 ・・・生まれたばかりの子供を育てるつもりで、2年間は覚悟しています・・・ 』 とかいう言葉の重みを実感する今日この頃である。 我ながら未だに可愛げのない嫌味な親父であるが、感謝の気持ちだけは忘れたことはない。

というわけで、先週末から体調の如何にかかわらず、毎日一時間くらいの散歩に出かけることにした。 "体調の如何にかかわらず" と言う以上、これまでとても無理だろうと思っていた状態でも、とにかく支度をして "しゃにむに" 出かけている。 主治医に言わせれば "命に別状のある" 状態ではないそうだが、それでも不安を感ずるのが "鬱病" の "鬱病" たる所以らしい。 "心頭滅却" には程遠い心境だが無理やり強行している。 とにかく、ケーニヒスべルクの Kant を見習って毎日時計のように昼になったらトボトボと散歩に出かけることにして1週間経つが、気候がよい所為か今の所続いている。 当然のことながら、 "飼い犬" と同じで "ご褒美の餌" (はやり言葉で言えばインセンティヴ)が欠かせない。 一つは公園で小さな子供たちの元気な姿を見ることだ。 幸い怖がられることもないので楽しみにしているが、時には誰もいないことがある。 そのため、家を出るとき 500円玉 か 1000円札 を一枚貰っておき、行き先の喫茶店で ホットドッグ などをもぐもぐと30分かけていただくことにしている。 周囲の客が変な顔ををしているかもしれないが、"何かまうものか"、"こっちは病人様だ!"
それにしても、何のためにこうまでして生き延びる必要があるのかと言う疑問は一向に去らない。 因果な性格ではある。

2010年11月9日火曜日

白人優位は終焉するか?

2010年5月1日・・・喉もと過ぎれば熱さを忘れるのところに以下のように書いたが、オバマ大統領の苦戦振りを見ると、ああ、やはり、の感を強くする。 『因果必然』、 『色即是空』 の立場から見れば、如何でもよいことの範疇に属するが、さしあたり興味津々と言ったところである。

2010年2月5日金曜日 生還の損得勘定 のところに 300年にわたる白人優位思想の終焉と書いたが、これは飽くまでも白人優位思想の終焉であって、白人優位の終焉 ではない。
優位にあるものがそう簡単に既得権を手放すことはありえない。 それは最近の官僚と政治家の醜い争いを見ても分かることだ。 これなどは蝸牛角上の争いに過ぎないが、これからの100年間は血みどろの人種間抗争が続くはずである。 それをいちばん良く知っているのは恐らく中国の指導者で、彼らは必死になって生き残りの方策を模索しているに違いない。 日本人もそろそろ本気になって、米中どちらの属国になって生き延びるか考えた方が良い。

2010年11月1日月曜日

2010.11.1 病状の総括・・・不安定な病状

今月の19日朝9時で、発病以来満2周年を迎える。 妻が主治医に言った 「2年間は生まれたばかりの子供を育てるのだと思って覚悟している」 という言葉が改めてずしりと堪える今日この頃である。 この辺で現状を総括しておきたい。

(一寸疲れたので中断する・・・・・)


今年の4月、7月、現在の状態をざっと比較すると・・・

左手の麻痺
4月: タオルを絞れない、常に冷たい、指先の感覚異常
     両手が連動しない、肩から首筋がだるい
7月: きつく絞れない、以下同じ
現在: きつく絞ると爪先が剥がれる、以下同じ

右腿の痺れ
4月: 常に軽い痺れ、時々就寝時に疼痛
7月: 常に軽い痺れ、稀に就寝時に疼痛
現在: 同上

散歩、バス、電車で出かける
(△=苦痛を伴う ▲=危険 x=絶対やりたくない)
4月: △、▲、x
7月: ▲、x、x
現在: △、▲、x

電話を受ける、かける、会話する
(▲=動作はできるが用を成さない x=動作もままならず)
4月: x、x、x
7月: ▲、x、x
現在: ▲、▲、x

腰部の皮膚異常
椅子、ベンチ、ソファーでの食事・休憩・行事出席、
(△=10分以上は苦痛 ▲=始めから苦痛 x=絶対座りたくない)
4月: △、▲、x
7月: ▲、x、x
現在: △、△、x

体調不良(動悸、息切れ、むかつき、脱力感)
4月: 隔日程度
7月: 殆ど毎日
現在: 同上

情緒異常(苛立ち、不安、鬱)
4月: 殆ど毎日
7月: 同上
現在: 隔日程度

一年の単位で見れば、徐々に出来ることが増えてきているのは分かるが、全てが中途半端で苦痛を伴う。それ以上にやれないことが見えてきて一向に回復感がない。 医師に相談しても、上手に病気と付き合っていくしかないと言われるので埒があかない。

要するに、個々の症状は、どれをとっても命に別条はないが、毎日が不快で楽しくない。 もっと不愉快なのは、「趣味を持て・・・」 などと尤もらしく言われることだ。 私だって心身ともに不快でなければ、時間つぶしの材料には事欠かない。 ただ、心身の不快を圧してまで、これ以上、長生きしたいと思うほどの材料が見つからないだけだ。

取り敢えずは、父の遺稿 "A Mysterious Episode of Violin" 「バイオリン奇譚」 のWEB公開と 祖父の遺志 「因果必然の科学的モデル化」 の継承を義務だと思って取り掛かっているが、それもそろそろ先が見えてきた。 これ以上、生きていたところで何ほどの材料が見つかるだろうか。 あとは助けてくれた「恩人」たちに感謝するためだけに生きているようなもので、もっと若ければともかく、70才を過ぎてなお未練がましく生きているための積極的理由が見当たらない。 いつ死んでもよいと思う所以である。 これを鬱病と言うのなら、そうでない人々は、いったい何歳まで生きていれば気が済むのだろうか。

2010年10月9日土曜日

最近の精神状態

最近は、以前より手足が動くようにくなったきた所為か、新聞やTVで気になる話を目にすることが多く、つい要らぬことまで書いてしまう傾向がある。

少し心配になってきた来たので、先日、過去の書き込みを点検したところ、病床日記であるにも関わらず病気に関係のない記事ばかりで我ながら気の引けること夥しい。

しかし、手術の後遺症である虚血性脳梗塞の所為で心身の状態がままならず、とくに鬱状態の時は、いよいよ死期が近いと思い込み、今のうちに書いておかねばという焦りが先にたってしまう 。
そういう意味では、これも病床日記の一部だといって差し支えないのかもしれない。

とにかく、PCで入力している限り、普通の人が3秒で答えることを3分かかっても、3分で済む話をやっとの思いで3週間かけて書いてもまったく分からないのだから、十分注意している心算でも、いったいどんな誤解を生んでいるか分かったものではない。(尤もTVや新聞でいろいろ言っている人と比べて特に遜色があるとも思えないが)
それにもかかわらず書き続けるのは、ほかに出来ることも生きがいもないからに過ぎない。

一応、判断力だけは、やや正常に戻ったと思っているが、もともと世間体を無視しがちな性格は一向に変わらず、むしろ以前よりますます激しくなってきたようで、家人からは何時もそれをたしなめられるが、それがまた腹立たしいのだから始末が悪い。
要するに私の生きる世界(余命)がそれだけ少なくなってきたということだろうと思っている今日この頃である。

ただ、わざわざ人に迷惑をかける意図はまったくありませんので、困るという方は遠慮なく言ってきてください。 ただし、時間内に冷静に会話することや作業することが難しいので余程のことがない限り、手紙かメールかFAXでお願いします。 それともう一つ、長年の経験から 匿名はだいたい悪人か卑怯者の仕業 と認識していますので、必ず身元を明らかにして頂きたいと存じます。

2010年9月2日木曜日

もう一人の畏友・・・石川嘉延君

駒場のクラスメートの中でも私が一目おいていた男の一人に前静岡県知事の石川嘉延君がいる。 1960年当時、一学年250万人くらいいた中で最初から東大を目指すほどの男なら誰でもそれなりの自負は持っていたし、合格者2000人の一人に選ばれれば、良くも悪くもエリート意識の何がしかはもっていて不思議は無い。 しかし、彼にはそんな気配が全く感じられなかったし、まさに “これぞ東大生” といった好感の持てる奴だった。

彼とは特に親しかったわけではなく、会えば気軽に言葉を交わす程度の付き合いだったが、4年生になった頃本郷のキャンパスで公務員試験の話しがでたときに、どうする心算か聞いたところ、外交官試験とどっちにするかまだ決めていないと言っていたように思う。 高校時代から教会の宣教師に付いて英会話を習っていたそうだから、外交官が候補の一つだったとして何の不思議も無い。 彼のような男なら何になっても国のためになるだろうと思ったのを覚えている。

そこで、下手な歌を一首・・・

役人か 外交官かと 言いし友 夢を託した 静岡空港

富士通総研時代、富士通本社から子会社の英国ICLに出向していた同僚 忽那恭一君の依頼で、ブダペストに出張した際、スイスのルツェルンに寄り道した帰路、パリのオルリー空港で図らずも、静岡県議員の一団とファーストクラスで同席するというハプニングがあり、隣席の県庁職員から聞いた話を思い出す。 つまり、石川知事の命令で静岡県の国際化を進めるため、田舎者の県議たちにヨーロッパ体験をさせるための “静岡県遣欧文化視察団” のお供を仰せつかったと言うのである。 “文化視察団”であるから当然行き先も優雅で、ギリシャのパルテノン、ミラノのスカラ座、パリのオペラ座・・・・等々で、先方も文化大臣以下いとも丁重な応対で、まさに夢心地だったようである。 なるほど、石川君ならやりそうなことだと合点がいった次第であった。

断っておくが、私がファーストクラスに乗ったのは、後にも先にもこのときだけである。 その頃、富士通は苦境にあり、部長以下はすべてエコノミーだったが、そのときのブダペスト往復は、忽那君の計らいで、特別にビジネスクラスをとってもらったくらいである。 それが、どうしてファーストクラスに乗れたのかといえば、多分、たまたま県庁職員の隣席が一つ空いていたので、スチュワーデスが気を利かせて話の合いそうなビジネスクラスの客をあてがったのだろうと想像する。 日航ではいつもそうしていたのか聞いてみたことが無いのでわからない。

2010年8月31日火曜日

江田五月君のホームページを情報貝塚へ

江田五月君のホームページと私の提唱する情報貝塚に何の関係が有るのか、熱中症気味で詳しく説明する気力が無いので今日のところは一言だけ述べておく。

8月28日の日経朝刊文化欄で同社編集委員の松岡資明氏が政治家個人の私文書の資料的重要性を論じているが、これこそ私の提唱する情報貝塚の意義を裏付ける根拠の一つだからである。 ここで私が氏の注意を促したいのは、その私文書の中にWEB上の電子文書も加える必要があるということだ。
私がその候補の筆頭にあげたいと思っているのが、他ならぬ1960年東大入学時のクラスメートでもあり、一昨年発病するまでは毎年数回クラス会で顔を合わせていた 前参議院議長江田五月君のホームページとブログ だと言うことである。

なぜ数ある政治家のホームページのなかで特に江田五月のホームページを推すのかと言うと、彼があの多忙な毎日の中で一日も欠かさずその日のうちに自らPCを叩いてその行動と所感を書き込んでいるからである。 私より2歳若いとは言ってもあの歳でそこまでやる人はまずいない。 これは私の31年に及ぶ富士通勤務と14年間の東京情報大学教員としての体験から断言できる。 理由は企業でも役所でも部長以上に偉くなってしまうと部下任せ、秘書任せでPCを触らなくなってしまうからだ。 江田君が、一旦書いてしまったら世界中に流れてしまうことを百も承知で敢えてその危険を顧みず書き続けている姿勢には、思想的には彼の市民主義に若干距離を置く私ではあるが、友人として心から敬服している。

そこで、私のHPに載せてある辞世
身はたとえ 一期一会に 終わるとも うずめ置かまし 情報貝塚
を本歌にして

江田五月 かくも多忙な 日々の日記(にき) うずめ置かまし 情報貝塚

2010年8月10日火曜日

泉下の村上泰亮氏に詫びる・・・幻に終わった村上・山本会談

7月23日の日記で日経コラム(明日への話題)での村上陽一郎氏の言に触れたが、7月30日の同欄では、自然保護について書かれていた。 いわゆる生物多様性とか自然保護と言っても、要するに人間様のご都合主義に過ぎない、と言う趣旨で、それなら自然保護などと偽善的な言葉を使わず、文化財保護と言えば良い・・・というまことに当を得た指摘であった。 しかし、この1週間、同じ趣旨の文章を何処かで見た気がしてならなかった。 あるいは最近ますますはげしくなった既視感の所為かとも思ったがどうもおかしい。 そのうち昼寝の最中にはたと気がついた。 そうだ! 故村上泰亮氏から寄贈された 『反古典の政治経済学(上下2巻)』 のなかに今後数世紀の世界の潮流を規定する3つの対立軸の一つとして挙げられていた産業主義対反産業主義の説明にそっくりだ。両氏は兄弟か親戚関係なんだろうか。
この著書は、村上泰亮氏が晩年、国際大学グローバルコミュニケーションセンターの教授として公文俊平らの活動に参画しておられた頃、富士通との共同研究会の場で何度か同席した縁でいただいたもので、特に個人的な親交があったわけではない。
それなのに、なぜお詫びしなければならないかと言うと、氏が生前富士通の山本卓眞社長(当時)に是非直接会って話しておきたいことがあると言われていたことを知り、かつ、当時の富士通本社秘書室の茶坊主が消極的でなかなか実現しないのを仄聞しながら、ついに仲介の労を執ることなく終わってしまったからである。
入社当時の課長であり結婚式では主賓としてお呼びし、新婚旅行から戻ってすぐ夫婦で上高田のご自宅へ挨拶に伺ったくらいだから、秘書室など通さず直接お願いに行けばよかったのに、どうして・・・と苦やまれてならない。かくて私の優柔不断の故に傑出した憂国者同志の歴史的会見はついに実現することはなかった。

2010年8月2日月曜日

現実的中立国家の構想

これまでの日記を読んで、私を軍国主義者だと 誤解する人がいるかも知れない。 しかし私がゾンビだと決め付けているのは国家不要論者や空想的平和主義者であって、まじめな平和主義者ではない。 もっとも今のゾンビ社会では実現可能性のある方策を示すまじめな平和主義者にお目にかかったことがないので悪口をいう機会が多くなるのも仕方が無い。
イラクのサマーワに派遣された自衛隊員たちの爪の垢でも煎じて飲めと言いたくなる。
何が不真面目かと言うと、戦争は殆ど常に強い側から弱い側が追い詰められて起きていることを知らないか、知っていながらそれを言わないからだ。
早い話が、大東亜戦争だってアメリカがイギリスと中国の悲鳴を無視できず、ルーズベルト大統領が不戦の選挙公約を反故にする口実を作るために日本を奇襲攻撃せざるを得ない窮地に追い込んだ戦略の一環に過ぎない。 そこが真珠湾であろうが何処であろうが要は米国の一部でありさえすればよかったのだ。 その点、米国の度重なる挑発にもかかわらずその手に乗らなかったドイツの方が賢かったと言う人もいるが、そうではなくドイツが強大だったため追い詰めあぐねていただけのことで、それより石油の無い日本を追い詰める方が手っ取り早かっただけだ。

要するに何がいいたいかと言うと、戦う能力も無い弱小国が、平和、平和、と唱えても、それだけではまさに犬の遠吠えに過ぎないと言うことだ。 戦争をする能力と意思を持った国(日本以外の全て)が、戦争を仕掛けることに利益を感じるときそれを防ぐ手段は無い。 国際世論などという者がいるが、それ自体が強国の格好の操作道具として使われることを知らないとは言わせない。

だから軍事力を強化しろと言うのではない。 日本の運命を左右する能力を持つ有力者(超大国の実力者、超資産家、超名家、超名望家・・・たとえば英王室)が個人的に日本の安全を望まざるを得ない仕掛けを作ればよいのだ。

要するに今や規模においても地理的条件においてもラストリゾートとして機能不全に陥ったスイスやスェーデンに代わって世界一のラストリゾート国家を目指すというのも100年単位で考えればありうる話である。 たとえば、超一流の全寮制学校を数十から数百設立し、世界中から有力者の子弟をかき集めるなどはどうだろう。 気違いでもない限り自分の命より大切な家族や財産の置き場所に核戦争を仕掛ける変わり者がいるとは思えない。

もちろんそのためには色々な思い切った施策が必要になろう。 たとえば個人資産1兆円までは相続税を免除するくらいのことでビビッテは ならない。 ことは国家100年の大計である。 その位の覚悟がなければ、ロックフェラーやビル・ゲイツが老後を過ごしたいとは思わないだろう。

早い話が江戸幕府が300年も前に大成功した大名家族人質作戦と大藩の相互牽制策の国際版である。 そして、此処が肝心な処だが、これを国策として内外に公示することである。 おそらく賛否相半ばするだろうが、真の超有力層(ヨーロッパ貴族、中国・アジアの権力者、米国の大富豪・・・・)は表向きの発言はともかく内心は大賛成だろう。 これぞ人間の本性に支えられた究極の国家安全保障戦略である。

これが実現性をもつ理由は、わが国が島国で不法入国に強いこと、10億人単位の超大国に囲まれていること、文化レベルが今や超一流で、とくに若い世代に人気のあること、結構しっかりした治安部隊(国内治安、不法侵入に対する治安・・ただし、その気になればの話だが)を持っていること・・・などであるが、課題も多い。 見苦しく荒れ放題の街区や里山、古い民家の保存と修復、小うるさい規制・・・等々。 しかし金はあるし、さらに世界の超大富豪たちが集まって来るのだからけちけちせずにどんどん投資すればよい。 100年後には世界中の名士にいつでも散歩の途中で行き会う日常になっているだろう。 これは絵空事ではない。 現在のスイスを見れば分かる。

いずれにせよ、日本国民にいざとなったら戦う気概が無ければ誰も寄り付かないだろう。

2010年7月24日土曜日

経絡・経穴に関する一仮説

今年の3月末で通院リハビリが満18ヶ月に達し、病院でのリハビリが受けられなくなったので、いわゆるリハビリ施設への通所リハビリと訪問医療マッサージに切り替えている。
それにつけても、マッサージ師には通じても、医師には通じない(異常なしとして無視される)世界があまりにも広いのには、改めて呆れ返る。
例えば、以前から、どうして医学者(医者ではない)は、経絡・経穴に関する研究をしないのか不満だったが、これも一種の 『閉ざされた言語空間』 だと考えれば納得が行く。 要するに世の中の既得権者は、何事も事なかれ主義に徹することで現状維持を諮るのが得策と言うわけだ。 それが証拠に東大医学部からノーベル賞学者が出たためしがない。 国家予算の無駄遣いをしているのは何も役人ばかりではない。

そこで、私が一つの仮説を提出するので誰でもよいから研究結果を聞かせて欲しい。 医学者にその気がないなら、電子技術者でも類人猿研究者でも、興味がある人なら誰でもできるはずだ。 成果を挙げれば東大からも招聘されるかもしれない。 もっともそうなったらもっとましな大学から引く手あまたで東大なんぞの出る幕ではなくなるだろう。

つい、いつもの癖で前置きが長くなった。

【仮説】
経絡・経穴は、西洋医学の解剖学では存在しないといわれている。(cf.「医学の革命」関口益男 昭和13年) もしこれが事実だとすれば、経絡・経穴は、血管系、神経系、リンパ系のように物理的に存在する第4の循環系ではなく、血管系、神経系、リンパ系等の脳内地図・・言わば仮想循環系=情報循環系・・であり、いわゆるツボは、脳内地図上の特異点にあたると考えられないだろうか。 A点に刺激を与えるとB点に効果が伝わる(例えば首の後ろを圧迫すると眼病に効果があることは私自身12歳のときに経験した)のは、A点とB点が脳内地図上でリンクしているからだと考える。

これを、どのような方法で検証するかも含めて是非誰かに取り組んで欲しい。 こういうリスクの高いテーマを避けてノーベル賞など受賞しても尊敬には値しない。 ガリレオが尊敬されるのは、その時代のタブーに挑戦したからだ。

蛇足ながら、仮に成功したら、成果の発表にあたって、私のブログからヒントを得た位のことは付記していただきたい。

2010年7月23日金曜日

下村脩氏と村上陽一郎氏に敬意

下村脩氏と村上陽一郎氏に敬意を表する理由は、お二人とも 『閉ざされた言語空間』 に閉じ込められていないからだ。

まず、下村氏には謝罪しなければならない。
2010年2月5日金曜日 生還の損得勘定 のところで 「南部、益川、小林、下村4博士のノーベル賞同時受賞の快挙。とりわけ、南部、益川・小林3氏の物理学賞独占は、クラシック音楽についで学術の分野でもユダヤ人に追いつき追い越した証左。」 と書いたが、今日の日経 『私の履歴書』 を読んで、自分の無知と不明を恥じた。 これは、下村氏の業績、とりわけ、全米科学財団(NSF)の会長夫人の謬見とそれに追従する有機化学主流派の反論を孤軍奮闘して打破した勇気ある行動を知らなかった所為である。 このことは米国にもまた 『閉ざされた言語空間』 が存在したと言うことであり、それに対して果敢に挑戦しこれを突破した氏の偉大さを改めて認識した次第である。 ここに改めて不明を恥じ敬服の意を表したい。
そういえば受賞に当たって、氏が口にした言葉は意味深長であった。 「自分は受賞するなら 生物学賞 だと思っていた。 化学賞 だと聞いてびっくりした・・・ 」
もしかしたら、日本語で受賞者の業績を紹介したことと言い、米国勢に対するスエーデン政府の意地を見せたのかもしれない。

村上氏に敬意を表する理由は、氏が 『閉ざされた言語空間』 から派生する、あるいは意図的に流行らせられるミーハー的な略語(冬ソナ、スパコン・・・)に対して明らかに反感を示しているからである。 もっとも、私が期待するのはもっと直接的な表現で、それらの元凶であるマスコミを始とする勢力を叩くか、揶揄することであるが、ご自身がコラムニストとして登場するマスコミ(この場合は日経)を直接名指しで批判するのは憚られるのだろう。 せめて 冬ソナ、スパコン・・・の後に、カラオケ、スタメン、Gセブン、・・・と続けて欲しかった。 今後に期待したいところだが、東洋英和女学院大学長 の肩書きが有っては、期待するほうが無理だろう。 その意味では、氏も今のところ 『閉ざされた言語空間』 から用心深く外の気配を窺っているところかもしれない。

そうそう、東洋英和女学院 といえば、私のホームページ 『一期一会』『追憶十話: その5・・・1962年63年の夏』 で紹介した 越智伸男君の母堂(故人:生前お会いしたことがある)、お姉さんともに同校の出身でずっとコーラス部に所属して居られたとか。 姉君はご健在で今でもコーラス部の大御所として活動されているらしい。 そのことを知ったのは、彼が私のホームページの 『追憶十話: その2 ・・・1959年19歳の夏』 「イギリス民謡:春の日の」 に関わる思い出を書いたのを見て、 「母や姉がよく歌っていたので子供のころから知っている大好きな歌だ。 ホームページの完成を楽しみにしている・・・」 と書いて寄こしたからである。 本題には直接関係がないが、今の私にとっては、生きる張合いのひとつとなっているので、敢えて此処に記しておきたい。

2010年7月2日金曜日

ICT業界のコンセプト合戦

6月28日の日経朝刊で、ICT業界の所謂 “クラウド” 特集をやっていた。 まったく、この業界は空疎なコンセプトを振り回して人を騒がせるのが好きだ。 これは、今に始まったことではなく、1964年に米IBM社 が SYTEM/360シリーズ を鳴り物入りで売り出して以来、ずっと変わらない。

当時、私は富士通の新入社員だったが、某都市銀行から内緒で借り出した(もう時効だろう!) SYSTEM360 の解説書 "Concepts and Fascilities" の要約を命じられ、その体系的かつ論理明快な、しかし、空疎で大げさな記述に痛く感心したものだ。 内容は殆ど UNIVAC 社の OS (EXEC?) の焼き直しであった。 その後1968年10月に我々富士通が旧第一銀行で完成した OLTP の必須機能(排他制御とトランザクションリカバリー)を 日本IBM社 が実現したのは70年代の第2次オンラインシステムにおいてである。 さらに、同機能を 米IBM社 が提供するのは、何と80年代の第3次オンラインシステムになってからであった。

しかし、これを米国に対する日本の優位と考えたらとんでもない間違いを冒すことになる。 何故なら60年代に我々富士通の技術陣が ORBS (オンラインリアルタイムバンキングシステム) の開発で 日本IBM社 を抜いたと豪語しかけた時、米IBMワトソン研究所のフェローだった James Martin 博士が著した "Real Time" には、我々の考えた原理が精密かつ具体的に解説されていたからである。

これは何を意味するのであろうか。 つまり、敗戦後の日本以外の先進国において、最先端技術はすべて軍事機密として秘匿されているということである。 民間に開放されるのは、国家の存亡に影響のなくなった陳腐化したものだけだということを肝に銘ずる必要がある。 広島・長崎型原爆然り(水爆だけは教えない)、インターネット然り(軍事用スパイウェアーは教えない)、GPS然り(偵察衛星の精度は教えない)、日本が介護用ロボットで騒いでいる間に、気がついたときにはロボット兵器が量産されているはずだ。

話が逸れた。 新しい目眩ましのコンセプト "クラウド" に戻そう。 この特集では、専ら、新産業創造 に焦点が当てられているが、それはそれでよいとして、私がここで取り上げたいのは、米ツイッター CEO G・パス氏 と 国立国会図書館長・長尾真氏の話である。

パス氏は、4つの設計原則とかいろいろ例によって目眩ましのコンセプトを掲げているが要するに個人が好き勝手なことを世界中の誰とでも好き勝手なときに喋り合える巨大な井戸端を作ろうと言うもので、普通の日本人は、"それは楽しそうだ" あるいは、"それは儲かりそうだ" くらいしか考えないだろう。 私もそれだけであることを祈る。

しかし、ことによるとこれも軍事技術の戦略的開放の一環かも知れない。 つまり、世界中の呟きを監視し、反米的発言をスクリーニングするための技術開発が完了したので、いよいよ "呟き監視ネットワーク" の国際展開に乗り出したのかも知れないのだ。 少なくとも米国政府が安全保障のスクリーニングをパスしない技術を国外に開放することはない(これが厳然たる事実であることは世界中の識者の常識である)のだから、このくらいは当然と考えるべきだ。

長尾氏の指摘は、全国の学術情報を一元化し、日本中の学術情報を何処にいても利用可能にすることが学術振興延いては産業発展のために重要だというもので、それはそれで全くそのとおりである。

しかし、私がそれ以上に重要だと考えるのは、放っておけば蒸発(揮発)してしまう電子情報をいかにして後世に遺すかと言うことだ。 紙情報にはパピルス以来、数千年の人類の営為が記されている。 さらに、貝塚には、数万年前の営為の痕跡が残されている。 果たして、ホームページやブログ、はたまた、2チャンネルやツイッターにどれほどの寿命が期待できるだろうか。 つまり、私がここで言いたいのは、便利にすることばかりでなく、後の世に残すことも考えようということだ。 そうすることで、コミュニケーションの相手を未来にまで拡げることが出来るではないか。

そこで、この際、情報貝塚 構想(The Concept of Information Shellmound) を提案する。

2010年6月29日火曜日

『閉ざされた言語空間』 の住人達

ここのところ、TVや新聞のいたる所で 『閉ざされた言語空間』の痕跡が目につく。 ベルリンの壁はドイツ敗戦の後遺症だが、目に見えるだけたちがよかった。それに引き換え、わが国敗戦の後遺症である 『閉ざされた言語空間』 は、いまだにびくともしないで、日本人の意識を目に見えない壁に閉じ込めている。

例を2つ挙げよう。

① 先日、どこかの TV 放送局(局という以上民間会社ではない筈だが)で、98歳の老医師が中学校か高校で講演しているニュースを流していた。 TV で見る限り件の老医師の講演の趣旨は 『命の大切さ』 ではなく、 『命の使い方--生き方の大切さ』 であった。それが証拠に彼は 「長生きすれば良いというわけではない」 と、はっきり言っていた。 しかし、これが教員やTV局(会社?)のお気に召さなかったのだろう。 わざわざ "良い子" を使って 「命の大切さを学びました」 と言わせている。 "良い子" も馬鹿ではないから、こういうときどう答えればよいかは百も承知である。 賢そうな女の子の白けた顔がせめてもの救いだった。

私が、そう断定するにはそれなりの根拠がある。 私自身、中学3年のとき、それをやらされたからである。 それ以来それまで尊敬していた社会科の教師の正体を見たような気がして、そのせいか東大受験でも世界史が大嫌いになってしまった。 当時、私は、市内にある桐生高校に入り群馬大学工学部に進むつもりだったから碌に入試勉強などしていなかったが、何の風の吹き回しか東大進学会の模試で全国7番になったのを 皮切りに県内1万人の高校受験生が参加する模試で県下1位になるなど教師達の期待を集めていた。 折も折、わが母校、桐生市立西中学校で県内のお偉方を集めた模範授業をやることになった。 そこで言わされたのである。 「敵国が攻めてきたら、抵抗せず両手を挙げて降参します・・・」 と。 そう言いながら私は悔しくて涙が出てきた。 それを見た教師やお偉方は私が感動して涙を流していると勘違いしたらしい。 そうです、そうです と言わんばかりに頷き合っていた。 私は屈辱にわなわなと口をふるわせるばかりで声も出なかった。 今、思えば似非人道主義者の昇進(後に市内某中学校の校長になった)の道具に使われてしまったのである。 わが人生最大の汚点である。 因みに彼の名は、私のホームページの 恩師 の中には、当然のことながら入っていない。

② 昨日の日経(吉田茂が「日本の新聞は読まない!」と言ったわけが良くわかる)教育欄に 『偉くなりたくない』 顕著 というタイトルの文章が載っていた。 書き手は 「日本青少年教育研究所理事長」 の千石保氏である。 そもそも比較の対象が、米・中・韓 で 英・独・仏 でないなど、初めから結論ありきの意図が見え見えであるが、氏が指摘する問題点は至極もっともで別に反論するつもりはない。 一言付け加えたいのはそのよって来たる原因である。 氏は所得格差とかいろいろ挙げているが、一番肝心なことを(おそらく意識的に)避けている。 つまり、小・中学校を通じて、いちども 「偉人」 を(個人的にではなく公式に)褒める教師に出遭ったことがないことである。 要するに日本には昔から偉人はいなかったことになっているのだ。 米国で大統領を貶す(政策の批判ではない)ニュースキャスターなどまともな市民とは看做されないが、日本では芸人風情が平気で自分達の選んだ首相に失礼きわまる罵詈雑言を吐く。 いったい何様のつもりか!

話が脇に逸れたので、本論に戻って私の体験した実例を紹介しよう。 一昨年の4月、私がまだ 東京情報大学 の教師だったころ、恒例の(どこかの会社が流行らせた)フレッシュマンキャンプと言う新入生1泊合宿に出かけたときの話である。 往路のバスの中で世話役の上級生が車内の新入生達に対して、自己紹介アンケート用紙を配り、記入内容を互いに隣席の学生に読み上げさせると言うゲーム(他己紹介と言うらしい)をはじめた。 そこまでは、別にどうと言うことはない余興に過ぎないが、驚いたのは、『尊敬する人は?』 という質問に対する回答である。 何と殆ど全ての学生が 『両親』 と答えたのである。 他は数人の学生が 『無し』 だった。 たった一人、中国古代の歴史家(思想家というべきかも知れないが名前を思い出せない)の名を挙げた者がいたが、それは中国からの留学生だった。 つまり、わが国のゾンビ教育では、今日なお、誰かを両親以上に尊敬してはいけない (と言うことは世の中に本当に偉い人などいる筈がない) と教えられていると言うことだ。 こうして、閉ざされた言語空間の中で育った青少年が、 『偉くなりたくない』 と答えるのが正解だと考えるのは当然のことである。

2010年6月25日金曜日

新聞コラムに見る怯懦の精神構造

2月20日 「手術同意書に見る怯懦の精神構造」
の末尾に

毎年、終戦(敗戦)記念日が近づくたびに繰り返される 『戦死者=無謀な戦争の犠牲者』、『戦没者=戦争被害者』 の大合唱も戦死者や戦没者を犬死した愚か者と罵っているのと変わらない。
その根底にあるのは、無知と自惚れ、そして怯懦の精神構造である。
天皇陛下は 、まさかそんなつもりで黙祷されているわけではあるまい。


と書いたが、今日の日経夕刊のコラム 『あすへの話題』 に、三井物産会長の鎗田氏が、若いころロンドンの長屋で隣り合った老婦人を冒涜するような駄文を寄せていた。 なぜ、私が駄文という氏の名誉にかかわる誹謗とも取れるような言い方をするのかは、解らない人にいくら説明しても、解らないものは解らないとしか言いようがない。 一言で言えば、愛国心の価値を認めずお涙頂戴物語に変えてしまうことで自己保身を図り、老婦人が誇りに思い心の支えともしていた 父(第1次世界大戦で)、夫(第2次世界大戦ダンケルク敗戦で)、一人息子(同ロンドン空中戦で)の勇敢な戦死を犬死扱いしていることに気づかないか、或いは気づいていながらそれを讃える勇気を持っていないことが明らかだからである。 もし、日経のロンドン版にこの文章がそのまま掲載されたら、遺族から名誉毀損で訴えられかねない。 要するに、その根底にあるのは、無知と自惚れ、そして怯懦の精神構造である。 この人もまた、江藤淳の言う 閉ざされた言語空間 の住人だという事になる。 つまり、『仁・義・礼・智・信・勇・忠・孝・悌・和』 の徳目とは無縁の唯の商売人に過ぎないということだ。 そう言えば、日本経済新聞というのは元々商売人のための専門紙だった。 それが近頃えらそうにクォリティーペーパーとか言って中途半端に政治などを論ずるようになったのでつい余計な期待を掛けたのが間違いの元か。 我が家の近くにある新聞屋は朝日と日経しか扱っていないし、朝日よりはゾンビ化の程度が低いと思ってとっていたが、むしろ乙に澄ましているだけ余計たちが悪い。 それにしても政治は論じてもその一環である軍事を毛嫌いする理由がわからない。 国のために戦ったWBAでのイチローやワールドカップでの本田を讃えるなら、中国、ロシアの偵察機(軍艦)の領空(領海)侵犯に対して果敢にスクランブルを挑む自衛隊兵士も同じように讃えるべきだ。 こんな当たり前のことを一々言わなければならないのは世界中で敗戦後の日本だけだ。 閉ざされた言語空間 に住む ゾンビ たる所以である。

2010年6月2日水曜日

ゾンビ世代の最後のあがき

今日の日経朝刊 春秋欄に、鳩山首相退陣の世論が沸騰しているのに本人は KY (何のことだ?)で馬耳東風だという趣旨の駄文が載っていた。 私に言わせれば、したり顔に鳩山批判を繰り返すマスコミの方が米中露等のエリート層の真意が読めない、あるいは読めているからこそ必死になってそれを隠そうとあがいているゾンビの断末魔にしか見えない。 そもそも、こんなところに 西郷隆盛 の言葉を(知ってか知らずか)文脈も構わず引き合いに出すことが怪しからぬ。 西郷の有名な言葉 『命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れども、个様(かよう)の人は、凡俗の眼には見得られぬぞ』 というのは、自分のことを言ったと誤解する者が多いが、実際は、江戸城無血開城の真の立役者でありながら、その功を全て勝海舟に譲って恬淡としていた 山岡鉄舟 に敬服して言った言葉であることを蛇足ながら付言しておく。 いずれにせよ、米中の合意を取り付け、エゴに徹する自治体住民を宥めるため、只管バカを演ずる自分達の首相 の足を引っ張ることに血道をあげるマスコミ雀等の軽口のなかで引き合いに出すような言葉ではない。 近頃のマスコミに出てくる連中は、殆ど 「命は勿論惜しい、できれば名も欲しい、そうすれば議席も金も手に入る」 という輩ばかりだ。

2010年5月31日月曜日

古書店でまたまた収穫

2月24日の日記 『病床雑感・・・人生の最終章』 に、近くのスーパーに開店した古書店で、舛添要一氏の著作 『母に襁褓をあてるとき―介護 闘いの日々』 を見つけたことを書いたが、今日、久しぶりに行って見たら、今度も一つ収穫があった。 江藤淳の 『妻と私』 と題する小品である。 江藤氏とは残念ながら面識は無かったが、氏の著作 『閉ざされた言語空間・・・占領軍の検閲と戦後日本』『南洲随想』 で 氏の烈々たる憂国の情に触れ、一度は会っておきたいと思っていた人物の一人だった。 晩年は我が家から程近い 慶大SFC の教授だったこともあり、いずれお会いする機会も在ろうとのんびり構えているうちに自ら命を絶たれてしまい、2月19日の日記 『同病の著名人たち』 で触れた作家の立松和平氏と共に謦咳に接する 『縁』 が無かったのが残念でならない。 氏と慶子夫人の麗しい夫婦愛については以前から聞き及んでいたものの 『妻と私』 の存在は寡聞にして知らなかった。 冒頭に 『一つの収穫・・・』 と書いた所以である。 例によって古書店に預けたままなので、パラパラと立ち読みしただけで全部読んだわけではないが、夫の妻に対する思いやりは斯くあるべしと反省させられること頻りであった。 古書店に受け取りに行ってもらうのを妻にするか娘にするか思案中である。

2010年5月23日日曜日

同窓会に行ってきました・・・追伸

4月10日の日記に 赤城山と渡良瀬川 に興味のある方、地方分権 に関心のある方はご一覧ください・・云々と書きましたが、もう一つ忘れていました。私の本業だった ITIS に関心のある方もどうぞ。

2010年5月17日月曜日

地方分権の是非

極楽蜻蛉の国らしく・・・ と書いたついでにもう一つ言っておきたくなった。 地方分権の是非については、さまざまな角度から論じられているが、殆ど全て極楽鳶のざわめきに近い。昨日の日記で、国家不要論者と議論しても仕方ない・・・と言ったものの黙っていられなくなった。

順不同で申し訳ないが幾つかの盲点ないし矛盾を指摘しておきたい。

① 『修身斉家治国平天下』
とは、中国古代の戦国時代から2000年以上変わらない人間社会の大原則である。しかし、これは、飽くまでも、『修身』⇒『斉家』⇒『治国』⇒『平天下』 の順序でなければならない。 『修身』 だけで一生を終わってもまったく差し支えないが、これ無くしてまともな家や国はありえない。 敗戦後は、修身=道徳=戦争礼賛 というわけの判らない洗脳教育(占領軍の置き土産)の再生産が(彼らの犬とその後継者達によって)未だに続いている。 それでも生まれつき筋のいい若者達が、本能的に 『修身』 につとめ、どこかの国が支配している 『天下(国際社会と言うらしい)』 で(ローマの剣闘士のように)奮戦しているのは健気であるが、考えてみれば痛ましい限りである。
まして、彼らをおだてながら 『修身』⇒『斉家』⇒『治国』 を素っ飛ばしていきなり 『平天下』 を論ずる無責任な 『国家不要論者』 の跋扈には我慢ならない。 即刻、国外退去を命ずるか、国籍を剥奪して然るべきである。

② 『地方分権』
の語呂がいい所為か、根拠の無い線引論が横行している。 線引きは飽くまでも 『郷土』 を単位とすべきだというのが私の主張である。 ここで言う郷土とは 『原風景を共有しうる地域』 の意であり、同時に 『愛郷心を共有しうる地域』 の意でもある。 たとえば、私の家は祖父の代から群馬県桐生市に住み、私自身、高校時代までをそこで過ごしている。その私にとって郷土という意識が持てる地域は、市内を貫流する渡良瀬川の流域で、同じ方角に同じ姿の赤城山を望む地域、いわゆる両毛地区であり、その中には栃木県に属する足利市や佐野市も含まれる。断じて、前橋や高崎を含む「群馬県」ではないのである。要するに 『地方分権』 は 『原風景の共有によって支えられた愛郷心』を基礎としなければ、砂上の楼閣と帰すか、さもなければ、権力の争奪戦に堕すだろう。 どちらにしても大部分の住民にとっていいことは何も無い。書きたいことは、山ほどあるが 、いずれ洗脳されたゾンビ世代が死に絶えれば黙っていても、古来の真理が貫徹するだろうから、あまり騒がないことにしよう。


追記:上記に関しては、その後の情報ネットワークの発展を考慮しなければならないことは言うまでもない。その影響をどう考えるかに関しては、下記の論考を併せて参照されたい。

「情報技術の進歩と都市概念の変容」(「都市問題研究」:都市問題研究会 2001.1)

2010年5月15日土曜日

『解離性大動脈瘤』 と 『急性大動脈解離』の違い

極楽蜻蛉の国らしく米軍基地忌避論と某元野球監督の解離性大動脈瘤発見のニュースが喧しい。
前者について国家不要論者と議論しても仕方ないので、後者について付言しておきたい。

まず最初に、2月19日の日記 『同病の著名人たち』 から引用させていただくと・・・

昨日の日経に載っていた週刊誌の広告で、作家の立松和平氏が去る2月8日、解離性大動脈瘤で死去したことを知った。氏には道元田中正造に対する関心を共有することで以前から親近感を抱いていたので、ぜひ一度会いたいと思っていたが、それも果たせずに終わってしまった。

私の『急性大動脈解離』と氏の『解離性大動脈瘤』の異同を述べれば限が無いが、要するにいったん『大動脈瘤』という瘤状態を経由するか否かの違いだと考えれば当たらずとも遠からずである。
いずれにせよ発端は何らかの事情(私の場合は未だに原因不明)で大動脈の中層に動脈血が流れ込むことによって発症する。激痛を伴い、数時間内に死亡するのが一般だそうだが、私の場合幸か不幸かその記憶すら無い。

この投稿も終わらぬうちにテレビのニュースが、“必殺仕事人”こと俳優の藤田まこと氏の訃報を報じていた。こうして大動脈瘤や大動脈解離と言う疾患が俄かに有名になるのを喜んで良いものか、複雑な気持ちである。


TVのニュースは、専ら 『瘤』 の話に集中して 『解離』 はいつの間にかどこかに消えてしまったかに思われる。その理由は、多分、こういうことだろう。

① 『瘤』 に比べて 『解離』 は、生存率も小さい。 
② 『瘤』 に比べて 『解離』 は、説明が難しい。
③ もっとポピュラーになってから扱った方が得策である。  

そう考える理由を私の経験から挙げると

① 4ヶ月間の私の入院中に2件の同病患者が救急車で送られてきたが、いずれも複数の病院を盥回しにされた後、ようやく到着した時は既に死亡していた。 つまり、死亡率100%である。 しかし、このデータは手術における救命率にはカウントされない。
② 私は心臓血管外科の病棟に入院していたが、私の病因と症状をきちんと理解していたのは、主治医と看護師長、主任看護師くらいのものだった。
③ 私自身、銀行のCD障害や年金記録のトラブルについて何度かTVでコメントを求められたことがあるが、TVが説明の対象としているのは、いわゆるミーハーであり、 『大動脈瘤』、 『解離性大動脈瘤』、 『大動脈解離』、 『急性大動脈解離』 の違いを正確に理解しようとするような人たちではない。

そこで、ここでは、『大動脈瘤』、 『解離性大動脈瘤』、 『大動脈解離』、 『急性大動脈解離』 の区分をざっと説明しておくことにする。

① 大動脈は、内中外の3層から出来ており、これらがくっついたまま外側へ膨らんで瘤を作るのを一般に 『大動脈瘤』 と呼んでいる。
② 3層のうち何らかの原因で内層に出来た切れ目から比較的柔らかい中層に血液が流れ込み内層と外層がはがれていくのを 『大動脈解離』 という。
③ 『大動脈解離』 のうち解離が進行せず瘤の状態で小康を保っている場合を 『解離性大動脈瘤』 と呼ぶが、これは、後になって結果的にわかることが多い。
④ 『大動脈解離』 のうち瘤の状態を経ず、いきなり剥れて行く場合を 『急性大動脈解離』 と言い、最も死亡率が高い。 とくに心臓の出口に近い所からはがれだした場合(Stanford classification, type "A" )、内壁から漏れ出た液体が心嚢内に充満し、その圧力で心臓の拍動を阻害して心停止に至るケース(心タンポナーデと言うそうだ)が多く最も致死率が高いと言われている。

この急性大動脈解離は、さらに予兆(一過性脳虚血発作)があってから実際の解離が顕在化するまでの時間で、超急性発症後48時間以内)、急性2週間以内)、亜急性2週2カ月)、慢性2カ月以降)の4種類に分類されているらしい。 私の場合、発症の瞬間を含めて直前2ヶ月間の記憶が全くないので、自分では何とも言えないが、妻の記憶では前日の午後、だらだら坂を上りきったところにある我が家へ自転車で辿り着いた時の私の顔が尋常ではなかったと言うから、それが最初の予兆だったとすれば、超々急性と言うことになる。

最近、TV等のメディアが取り上げるのは殆ど③であり、④で救命できた例を聞いたことがない。 私の場合は、その意味で、周囲の医療関係者から奇跡的だといわれる所以である。
例えば・・・

 主治医は、自分の手術の成績を病院のホームページに公開しているほどフェアな人だが、手術後のICUで植物状態の私を介抱しながら 『先生、助かりますよね』 と問う妻に対して、決して 『ええ、助かりますよ』 とは答えなかった。
 元都内大病院の外科で看護婦長だった叔母が、義姉の通報にいったんは 『よくある病気だから心配ない・・・』 と言って慰めてくれながら、1月ほどして私が食事を摂れるようになったと聞いたとたん絶句したと言う。 叔母に言わせると、私には未だやる事があるのだそうだが・・・はて、いったい何だろう?
 退院後、リハビリのため通院している時、バッタリ出会った看護師がまるで幽霊にでも出会ったような表情を見せた。

一般に紹介される例は、全てといって良いくらい事前の検査で予兆がつかめているケースであり、体調から病院側の態勢まで万全の準備が整っている場合ばかりである。
しかし、『急性大動脈解離』 とくに『超急性大動脈解離』は、いつどこで起きるか知れず、はたして適当な病院があるか、またそのとき有能なスタッフの手が空いているか、さらには近くに誰か頼れる人がいるか等々・・・そもそも限られた時間内に手術ができるかどうか、条件が揃うのは奇跡に近い。


私の場合、それが可能だったのは

① 発症したのが朝9時ごろだった。
② 授業の無い水曜日で家にいた。
③ 妻が救急隊員の示した病院(茅ヶ崎徳洲会総合病院)を直ちに承諾した。
④ 救急隊と病院側の連絡が緊密で到着した時には、準備万端が整っていた。
⑤ 一人しか居ない心臓外科医の手が空いていた。
⑥ 執刀医が優秀だった。

等々・・あらゆる好条件に恵まれたからである。

今にして思えば、このような一見の超救急患者を手薄な陣容の元で受け入れ、救命に漕ぎつけたK医師の胆力と技量には、感謝以前に敬服、脱帽するしかない。


茅ヶ崎徳洲会総合病院には、2001年に前立腺癌で手術を受けた時以来、定期的に検査のため通院していたが、私は泌尿器科の主治医が気に入っており、妻はそのことを十分承知していた。
前立腺癌で手術を受けることを決めた時、学長から必要なら然るべき権威を紹介する用意がある旨の配慮をいただいたが、どんな名人の手に委ねても死ぬ時は死ぬ。 然らば誰に命を委ねるか・・・ それは権威でも技量でもない。 この人になら命を委ねても良いという気持ちになれるかどうか、それを運命だと受け入れる気持ちになれるかどうか・・・ それは 『縁』 だ・・・というのが私の人生観である。
今回の手術では、意識の無い私自身が救命を望んだわけでもなく、病院や医師を選んだわけでもなかったが、はからずも、もう一つの好縁を得ることになった。



追記(2012.10.21)

これまで2年以上に渡って、投稿が1件もありませんでしたが、今年に入ってお二方の投稿を掲載させて頂いて以来、ブログ全体の中でこの項目に限って、立て続けに匿名の投稿が届くようになりました。しかし、私としては、"潜在的に悩んで居られる方々が声を上げるきっかけの一助にはなったかな" と思うと嬉しい反面、気力・体力ともに対応しきれず困惑して居ります。何しろ右手の指一本で、ポツポツと入力しなければならず、それも体調の良い日にしか出来ないので、他の作業がすべて停まってしまいます。 幸い、この2年間に本疾患の詳細な解説サイトも増えてきましたし、これ以上素人の私が書くのは差し控えたいと思います。 と言うわけで、今後は本来の方針に戻って、匿名の投稿はお断りさせて頂くことにしました。

もちろん記述内容に重大な瑕疵があったり、どなたかにご迷惑がかかるような場合は、直ちに訂正あるいは削除するに吝かではございませんが、その場合は必ず関口宛の個人メールで実名でお申し越し下さるようお願いいたします。
メールアドレスは、本ブログの "詳細プロフィール" や、"ホームぺージ(一期一会 Our Eternal Moment)" 、"フェイスブック(関口益照)"  などに明記してありますのでそちらをご覧ください。

元々私の人生観に "共感" してくださる方が一人でも居られれば(死後でも!)と始めた作業ですので、もしそんな方が居られましたら是非メールをいただければ "望外の幸せ" と思っております。

2010年5月1日土曜日

喉元過ぎれば熱さを忘れる

病状の軽快と共に、それまで如何でも良いと思っていたことがやたら気になり始めた。

国家や政治家は勿論、サラリーマンやスポーツ選手、果ては家畜や野生動物でも、何でもそうだが、ハングリーでないと向上心が無くなるというのが “凡人” の常だというのは、恐ろしいほどの真理である。

以下はとりあえず気になってきた どうでもいいこと の例である。

2010年2月5日金曜日 生還の損得勘定 のところに 300年にわたる白人優位思想の終焉 と書いたが、これは飽くまでも白人優位思想の終焉であって、白人優位の終焉 ではない
優位にあるものがそう簡単に既得権を手放すことはありえない。 それは最近の官僚と政治家の醜い争いを見ても分かることだ。 これなどは蝸牛角上の争いに過ぎないが、これからの100年間は血みどろの人種間抗争が続くはずである。 それをいちばん良く知っているのは恐らく中国の指導者で、彼らは必死になって生き残りの方策を模索しているに違いない。 日本人もそろそろ本気になって、米中どちらの属国になって生き延びるか考えた方が良い。

どうでもいいこと の例を挙げだすと限が無いので、せめて一つくらい どうでも良くないこと を書きたくなった。

同じ日の 生還の損得勘定 の終わりの方に 書いたことを再掲すると・・・

しかし以上の2点をどうでもよいと思うほど感動したのは、ノーベル賞を受賞された小林博士の夫人がTVのインタビューに答えて語ったつぎの一言だった。夫人は小林氏の母堂が氏の受賞を見ずに他界されたことに触れそれが一番の心残りだといった後、こうつぶやかれた。
・・でも 人生ってそういうものですよね・・

未だに 佛家一大事の因縁 を大悟徹底するに到っていない私にとってこれを超えるを言葉を耳にしたことは無い。 

2010年4月25日日曜日

最近の病状

この4月18日で発症から丁度17ヶ月経ったことになる。 最近は食器洗いだけは手伝えるようになった。 尤もそれも気分しだいで、まったく出来ない日もあり、妻から見ればリハビリに協力してやらせてくれているようなものだ。 いちばん難しいのは、大皿を右手に持って左手でスポンジを使うというもので、良くぞこれまで落とさずにやっていると自分でも感心する。
しかし、左手や右腿の痺れ、自律神経の変調などは相変わらずで、感情の起伏と体調の変動は、むしろ激しくなってきたとさえ感じられる。 総じて、できる事が増えてきている反面、心身の不快感は一向に減らないどころか、むしろつのっていると言った状況である。 気温と体感温度の違いのようなものと考えれば、当たらずとも遠からずと言えようか。

ICU のベッドで、植物状態だった頃、妻が主治医にこう言ったそうだ。
『 ・・・生まれたばかりの子供を育てるつもりで、2年間は覚悟しています・・・ 』
すると、それまで、夫が元のように動けるようになるかについて、何を聞いても曖昧に答えるだけだった主治医が、にっこり笑顔を見せて、 『・・ご家族の親身な努力がいちばん大切です・・ 』  と答えたそうだ。 要するに医師としては何も出来ないと言いたかったのだろう。

妻や娘の献身については、『看病=菩薩行 の所でも書いたが、これは当事者になってみなければ、本当には判らないものだ。 そのことには心から感謝している。 もう一度こういうことがあっても同じ苦労はさせたくない。 妻には 『 こんどこういう危険な手術が要求されても受諾するな。こんな苦労は一度で十分だ。 時節到来と明らめて大往生させてくれ 』  と言い渡してある。
最近も老々介護の悲劇が報じられたが、 “楽にしてやる” のを殺人罪に問うなら、同様に “苦しませ続ける” のも、拷問罪に問うべきだ。 戦後日本の法体系の似非人道主義にはまったく腹が立つ。 医師や法律家たちは、自分たちが人助けにのみ貢献していると思っているかもしれないが、同時に意図せざる “拷問” “困窮死” に加担しているかも知れないと思う恐怖を感じていないのだろうか。
 

2010年4月16日金曜日

忘れてはならないこと・・We are three!

誰でも生きているうちに言っておけばよかったと後悔することがあるものだ。
父や母に対しては、たいていの場合、間に合わない。
しかし、自分が親になってみればわかることだが、親が子供に何かを期待するのは煩悩にすぎない。
仮に子供が不孝者だったとしても、まともな親は悲しむことはあっても子供を恨んだりはしない 人生を感情だけで判断することは許されない。親には自らの選択で子供を作った責任というものがある。
(自らの意思で相手を選んだといえば、妻や夫は、その最たるものだが、これは、同じ縁でも次元の異なる縁だという気がするので、別に述べたい。)

また、兄弟や子供達も、生まれるかどうか、さらに、どのような親兄弟を持って生まれてくるかを選ぶことが出来ない。では、それを親の責任に帰することができるかといえば、それで片付く問題でないことは、まともな人間ならすぐわかることだ。

中には、恨みたい親兄弟(姉妹)もいるだろうし、謝りたい親兄弟(姉妹)、さらには、感謝したい親兄弟(姉妹)もいるだろう。親に対する後悔は、その昔から先に立たないのが通例だから諦めるとして、せめて兄弟(姉妹)に対しては人生のスタートから行を共にした伴侶として恩愛を超えた感謝の気持ちを伝えておきたいと思う。

私の場合、それは、二つ年上の兄と三つ年下の妹である。

兄は、父親が死んだ後、病身の母と妹を引き取り、まさに親代わりとなって、私には一切負担をかけずに面倒をみてくれた。私は、何も出来なかったが、いざという時は、運命共同体としていつでもとって代われるようにという気持ちだけは持ち続けてきた。妻子を持ってからは、その余裕も無くなり心苦しい限りだが、今回の病気入院を機に、これが自分の限界ならば潔く受け入れるしかないと思うようになった。
所詮、生涯、家長としての兄の恩義に甘えさせてもらうことになりそうだ。

妹とは歳が近かったせいもあり、特別の思い出が沢山ある。
あまり沢山ありすぎて、何から話せば良いのか判らないくらいだ。
生まれながら心臓の隔壁に穴があり、そのため血中酸素が不足して少し運動しただけで息切れする体だったが、それが判ったのは 50歳を過ぎてからであった。
もちろん、その間手を拱いていたわけではなく、中学生になった頃から幾つもの大学病院で、それこそ死屍に鞭打つような検査を受けたが、眩暈と息切れ、手足の痺れと空咳等の症状から心臓隔壁の欠陥を指摘してくれるところはなかった。それが判ったのは、いつも通っていたT病院の担当医が定年退職し、替わって担当することになった非常勤の女医(大学の先生とか)の初診のときだった。彼女は 「こんな初歩的な誤診は考えられない。医療過誤で訴えるなら協力します。」 とまで言ってくれたそうだ。
すでに60歳に近く、痩せ細り気力・体力の限界に達していた妹は、自分のそれまでの苦痛の訴えが決して我儘からではなく、心臓畸形のためだったことが判っただけで (その結果、家族の本当の理解が得られただけで) 十分だと言って、年老いた医師 (誤診しただけでなく気が付いた後も隠していた) を深追いしようとしなかった。

5歳の頃の妹は、普段、赤い着物を着て遊んでいたが、不細工な私と違ってまるで日本人形のように可愛らしかった。
我々が、強制疎開で空き地になった広場で ビー玉遊びをやっていたときのことだ。そばの縁石に腰掛けて弁当を食べていた2人の米兵が妹に向かって手招きするので、みんな何だろうと思って見ていると、妹がやっと抱えるような大きな缶詰らしいものを渡された。
戦後で碌なものも食えず、ひもじかったとはいえ、決して乞食のように恵んでもらうことなど考えず、角の牧田のおじさん(元陸軍の研究者でいつも米兵が立ち寄っていた)に教わった片言の英語で Have you any chewing gum? などとやって、皺くちゃの一円札と交換していた我々は、突然の米兵の行為(好意?)にびっくりした。
慌てて町内の床屋(岩折さん)に持ち込み、客の大人たちに件の缶詰の中身が何だろうと聞いてみたが、英語の読めるものが1人も居ず、若しかすると爆発するかもと言いながら、缶切であけてみると真っ赤などろどろした液体が詰まっているのが目に入った。
みんなこれはきっと人間の血だと言って気味悪がり、下水に流してしまったが、今思えばあれはきっとトマトジュースだったのだろう。そのときは気味悪がったものの、60年後になって気持ちが伝わるのだから、あの時の若い(恐らく10代の)米兵の好意も決して無にはならなかったということだ。

10~12歳の頃の妹は、背も高く華やかで、学年でも目立った女の子だった。
家計に余裕が無かったのでピアノが買えず、桐生で1軒しかない楽器店(紋谷さん)からレンタルで借りたオルガンで練習していたが、これも市内で唯一のピアノ教師であった紋谷姉妹からこれまで教えた生徒の中では、斉藤昌子(義理の叔母の従妹)さんとお宅の泰代さんが一番上手だと褒められた。
実際、西小学校の講堂で開かれた発表会を覗いた兄の友人も吃驚していたのを思い出す。

中学・高校時代の妹は、155センチを限界に成長が止まり、(心臓の負担能力以上には成長できない と言うことが判ったのは40年以上たってからだ。)体育の授業も見学することが多く、可哀想だったが、それでも健気に大学へ進学した。高校時代の女性の数学教師に憧れたとか言っていた。

とくに忘れられないのは、私が東大に合格した時、それまで1人で桐生の外に出たことの無かった妹が、前橋まで行って、全音階(半音を含めて!)が出せるハーモニカ を買ってきてくれたことだ。
ピアノもバイオリンも出来ず、小学校で習った木琴とハーモニカしかやれない私が、日頃から、「桐生には半音の出せるハモニカを売っている店が無い」と嘆いていたのを知っていたからだろう。
このハーモニカのお蔭で、それまで、旨く吹けなった世界名曲集のすべての曲を吹奏できるようになった。その後、幾つかの弁が欠けてしまい、使えなくなってしまったが、今でもケースに収まったまま、すぐ後ろの本棚においてある。


大学時代の妹は、『喫茶店でのお喋り』 など、大学生活の楽しみとは無縁の毎日を過ごしながら、必死の思いで卒論を書上げ卒業した。
このときのテーマは確か、東北王朝に関するもので、苦しい体を押して東北大学の有名な教授に面会までしてきたと言う。
私も資料集めを手伝い、定説に一部反論を試みる構想作りに協力した。今でも、その時、東大図書館で集めてきたマイクロフィルムのコピーが手元にある。
これも、すぐ後ろの本棚においてあり、私にとっては、全音のハーモニカと共に一生の宝物である。


妹に謝らなければならないことが、沢山有るがわざわざここに書かなくても本人にはわかっていることだと思うので敢えて書かないことにする。

高校時代の英語の教科書に William Wordsworthの詩で"We are seven!"というのがあった。
これに倣えば、私たち兄妹は、いつも "We are three!" である。

2010年4月10日土曜日

大学の同窓会に行ってきました。




クラス会総会への出席報告
(返信メールの転載で失礼します)


35年東大L1-6組の皆さんへ

昨日、いやもう一昨日になってしまいましたが、まさか、再び皆さんに会えるとは思っていませんでした。
主治医や看護師たちの言うように奇跡的に幸運だったのでしょう。
しかし、実際には波が激しく一昨日も午前中はどうなることかと心配でした。
諸君に会えるのが余程うれしかった所為かも知れません。

今回の病気でつくづく感じたのは、この種の大病で一番苦労するのは、本人よりもむしろ家族だということです。
そのへんの消息も含めて、ホームページとブログ(HPから入れます)に書きましたのでご笑覧ください。
皆さんに直接関係のありそうなところは、

追憶十話: その3・・・文1-6組の仲間たち
病床日記: 2010.2.2(満足セル豚よりも痩せたソクラテスになれ・・・)他
50年前の今日: 当時の日記帳からの抜書き(原文のまま)と注釈

その他も、老人のノスタルジーに徹していますので、赤城山渡良瀬川に興味のある方、地方分権に関心のある方はご一覧ください。
HPは、すべて手作りですので、体裁はご容赦ねがいます。
なお、私の主義として、ビジネスや広告の類は一切載せていませんのでご安心ください。

2010.4.10
関口益照

2010年4月2日金曜日

2年ぶりの大学同窓会

10年くらい前から東大文科1類6組の同窓会が毎年開かれるようになった。
幹事の堺君が熱心なのと、大出世した数人の旧友たちがいずれも、いい奴ばかりで偉ぶらないことが大きいと思っている。

一昨年、昨年と続けて欠席せざるをえなかったので、今年は是が非でも出席してやろうと意気込んでいる。一昨年の11月に発病して以来1度も東京へ行ったことが無いので、当日どうなるか保証の限りではないが、今年行かなければ、他にチャンスガ無いような気がするので思い切って出かけることにした。

場所は、飯田橋のホテルメトロポリタンエドモント、日時は4月8日の18時半だというので、当日の昼から妻の車で出かけ、その日はそのまま一泊することにした。いざとなったらそのまま寝込んでしまえばいいというわけだ。ホームページの 追憶:十話・・・その3 に書いた面々が皆出席するらしいので今から楽しみにしている。

2010年3月26日金曜日

帰去来の辞(その3)

里心が付いたついでに、母校(桐生高校)の掲示板への投稿から、桐生出身者で故郷をを離れて暮らす方々に関係のありそうなところを抜粋して掲載することにする。


2010/02/14(Sun)
発端・・・50年のご無沙汰を詫びる。

桐生高校同窓会の皆様
100年史編纂幹事 木本様

私は、昭和33年卒業の関口と申します。  ・・・・ 卒業以来、これまで一度も同窓会に出たことがなく大変忸怩たる思いでおりましたが、一昨年の11月、何の前触れもなく急性大動脈解離という危険な病気を発症し、10時間におよぶ手術の後、4ヶ月間の入院生活を余儀なくされました。

おかげでこの1年間は恩師や友人たちにも音信不通の状態が続き大変迷惑をかけてしまいました。1年たって漸く少し元気が出てきたので、何時死んでも良いようにと身辺整理をはじめたところ貴殿からOB図書館構想の葉書が届いていたのに気がつきました。

はじめ、桐生出身でOB図書館を飾るのは、日本人で最初にプリンストン大学教授になられた岩澤健吉さん(注:桐中出身ではなかったが) や、椎茸の養殖に成功された 森喜作さんのような一流の方々だけだろうと思って、そうなれなかった自分の不勉強をなげくだけでしたが、そのうちハッと気がつきました。

桐高(に限らず桐生)の後輩たちにとって、先輩の中に上記の方々のような超一流の人物がいるというのは何ものにも代えがたい宝物でしょうが、同時に多くの後輩たちにとって、一流をめざしながら能力不足や努力不足、あるいは不運のためそうなれなかった先輩が残した著作や論文もかえって励みになるのではないか、と思ったのです。というわけで恥を省みず拙著(共著書、論文)を別便にて送らせていただきます。

追伸1
岩澤家の次男が大秀才であることは当時、“どこそこの誰が” にやたら詳しかった祖母からも聞いたことがあります。 いずれにしても桐生の生んだ世界の大数学者であり、物理学でいえば湯川秀樹以上の偉人です。 この会の対象ではないかも知れませんが、ぜひとも桐生市の名誉市民に推薦したいと思っています。

追伸2
“どこそこの誰が” で思い出しましたが、祖母から聞いた話をもう一つ。 「森さんちの○男坊も困ったもんだねー。京都帝大まで出たのにキノコなんかに夢中になっておかしくなっちゃったらしいよ。」

今でこそ桐生の生んだ偉人として悪口なんぞ言う人は一人もいないと思いますが、当時の桐生の“良家のご婦人がた”のあいだでは白い目で見られていましたし、森さんのお母さんご自身も、がっかりしておられたようです。そんな周囲の目には、まったく “目” もくれずにひたすら信念を貫かれた森喜作さんの偉大さを桐高の後輩たちに知ってほしいと思います。

因みに10年ほど前、妻と一緒に格安のパックツアーで九州1周のバス旅行に参加した際、バスが大分県の臼杵地方に差し掛かったとき、ガイド嬢が、京大生森喜作と貧しいキノコ採りの母娘の物語を始め、九州の小学生で森喜作と桐生の名を知らない子供はいない・・・ と言ったのには感動しました。

大学教員時代に重慶工商大学から私の研究室に来ていた若い講師から、中国の小学生で東北帝大と藤野先生の名を知らない子供はいませんと言われたときと同じ感動でした。 一応、日本嫌いで通っている江沢民が来日のおり、東北大学医学部の階段教室をたずね、その昔、いつも魯迅が腰掛けていたという席に座って 中国人でこの席に座りたいと思わないものはいない・・・ と言ったとかいう話を思い出しました。

追信3
桐高同窓会のホームページを見たら既にOBリンクの表示が有りましたので早速申し込み手続きを済ませました。


2010/03/07(Sun)
30年度、1年生のときのマラソンについて

全校マラソンで完走し、ゴールのところで林檎を丸かじりしたときの味と2階の教室に戻るときの足の痛さを記憶しています。 コースの正確な記憶はありませんが、10キロコースだったことは確かです。 赤岩橋を渡って広沢へ抜け、そのあと金桜橋から戻って来たのかどうか・・・ まさか昭和橋じゃないだろう。

3年生の中には、途中トラックに便乗してズルする者もいました。 4位に入った佐藤勇五郎君は同じクラス(C組)の野球部員でした。 彼のほかにも野球部員が2~3人いたと思いますが雪合戦などで彼らが投げる雪礫の恐ろしさは今でも覚えています。 しかし、それほどの彼らもついに正選手にはなれませんでした。 当時の桐高野球部のレベルが如何に高かったかの証左でしょう。

2010年3月12日金曜日

早逝の後輩

2010.02.28の日記:帰去来の辞(その2) で母校桐生高校の100年史を編纂すべく資料集めに苦労されている1年後輩の木本氏について触れたが、氏の手紙の中で早逝の畏友、阿部達雄君の名を見つけて懐かしさと無念さがこみ上げてきた。

彼とは、高校時代に付き合いはなかったが、彼が一度目の東大受験に失敗した際、たまたま彼の英語の個人講師だった宮嶋夫人(津田塾卒の才媛でご夫婦そろって父の患者さんだった)から、どこの予備校が良いか相談があり、すでに2浪が確定し、駿台に移ることを決めていた私と一緒なら安心だ(注: 何が安心だ・・・)というわけで一緒に駿台を受験して以来の付き合いだった。
試験の前日は、私の西荻の下宿先(足利出身の田村ご夫妻)に同宿し、一緒にお茶の水の試験場(電機大学だったと思う)まで出かけた日のことを思い出す。
四月の入学式には彼のご両親も見え、私の父も交えて記念写真を撮ったはずだが、どういうわけかどこにも見当たらない。 

そのご、駒場でも本郷でも一度も出会った記憶がないが、桐生の金木屋で東大の先輩が召集した新入生歓迎会の席で一度会っているかも知れない。
卒業後は、数理経済学(大石泰彦ゼミ)をやってコンピュータ会社に入った私と、日本経済史(大塚久雄ゼミ)をやって鉄鋼メーカーに入り関西に赴任した彼(写真前列左から2人目)とは、行き会う機会がなかったが、年賀状をはじめ、赴任先が変わるごとに連絡し合っていた。

今でも彼の屈託のない元気な顔が目に浮かぶ。その彼が40歳そこそこで逝ってしまうとは・・・
クリスチャンだった夫人から届いた訃報には、「・・・夫達雄は・・・神の身元に召されました・・・」とあった。
その数年後に、もう一通の訃報を手にした私はただ呆然とするばかりだった。
そこには、「・・・母・・・は、・・・神の身元に召されました・・・」と印刷されていた。

クリスチャンでない私に、適切な言葉は浮かばないので、小林博士夫人の言葉で替えさせていただくことにする。

『・・・でも人生ってそういうものですよね・・・』

好漢、阿部達雄君、安らかに眠れ。

2010年3月4日木曜日

大動脈置換手術⇒脳梗塞⇒短期記憶喪失

より正確には

大動脈置換手術⇒人工心肺下の低温持続
⇒虚血状態持続⇒多臓器障害
⇒脳梗塞⇒短期記憶喪失

というべきだろう。
これが救命のためならなにをしても良いという現代医療の限界なのだから、その過程で何が起ころうと(植物人間になったとしても手術同意書さえ確保しておけば)医師に責任があるわけではない。

それはさておき、ここでは短期記憶喪失の体験談を紹介する。

昨日、妻が部屋の整理をしていて私宛のA4封筒を持ってきた。
見ると一昨年11月23日の消印が押してある。救急車で運ばれたのが11月19日だからその4日後と言うことになる。妻は12月に入って私の意識がある程度もどった頃、病院に持ってきて見せたと言うが、まったく記憶が無い。全員の集合写真を始め、テーブルごとの楽しそうにしている面々の中には、担任だった清水次夫先生や蓮見君、金子さん、中山さん等の顔が識別出来たが 、あとはどれが誰やらさっぱりわからない。

それもそうだ。もう20年以上会ってないからなぁ・・・

ところが、なんと集合写真の中に、自分にそっくりな奴が混じっているではないか。
はじめは、欠席した私が可哀想だというので幹事の宮本晴代さんが気を利かせて合成写真を送ってくれたのかと思ったが、次の瞬間・・・もしや心霊写真と言うのは本当にあるのかもしれない・・・と思ってぞっとした。
というのは、それほどそこに写っている自分の顔が異様だったからだ。生気がないというか、存在感が無いと言うか、とにかく他の友人たちと同席していると言う気配がまったく感じられない写真だった。

一昨年の大晦日に看護師を蹴飛ばす騒ぎを起こしたくらいだから、昨年の年賀状で誰が何と言ってきたかもよく見ていなかったし、勿論こちらからは何も連絡せず、先方から電話をしてきた勤務先やごく親しいゼミ仲間以外とは音信不通状態だったので、同窓会に出席したことも、いや同窓会があったことすら覚えていない。
しかし、そういえば思い当たることがある。
私の今年の年賀状で事態を知られた恩師の清水先生からいただいた返信に 「 同窓会のとき、ちょっとおかしいな(健康面)と思ったのですが・・・」 とあったので、 「 はて、いったい何のことだろう。先生は何か勘違いされているのかな・・・」 と自分のことは棚に上げて訝った覚えがある。
どうも実際に出席した同窓会の記憶がスッポリ抜けてしまったらしい。
9月には重慶工商大学から私の研究室に来ていた呉詩賢講師が帰国したことを覚えているが、9月末からスタートしたはずの後期の授業の記憶が殆ど無い。
ということは、9月末から11月末まで約2か月分の記憶がきれいに消えて無くなったことになる。
これは、えらいことだったなぁ・・・

改めて、年賀状でのお詫びの言葉を繰り返させていただきます。

『音信不通のため多大なご迷惑をおかけしました・・・』

2010年3月3日水曜日

大動脈置換手術&多臓器障害&脳梗塞

2月2日の投稿を引用させていただくと

・・・大動脈を人工血管に置換する際、人工心肺に切り替えるが、置換手術そのものよりも、それに起因する後遺症(虚血性脳梗塞及び臓器障害)の方が遥かに悲惨である。
私の場合、植物状態1週間、排泄障害(要するに垂れ流し)4ヶ月、1年以上たった今も手足の痺れや麻痺のほか息切れや動悸に悩まされている。・・・


たいていの場合、救命ばかりクローズアップされているが、“それに起因する後遺症(虚血性脳梗塞及び臓器障害)”は故意か否かは敢えて問わないが殆ど無視されている。

妻から聞いた私の息子(IT企業のSE)と執刀医のやりとりを以下に記すが、これが正しい説明である。

 医師 “ 手術は成功しました ”
 息子 “ 要するに救命したと言うことですね ”
 医師 “ そのとおりです ”

息子は、これから後に続くであろう一家の苦難を覚悟したに違いない。

無責任なTVが取り上げる際も非常に確率の低い幸運なケースがいかにも一般的なケースであるかのように説明される。
虚血性脳梗塞及び臓器障害と言う表現も誤解惹起的である。私の場合など、看護師ですら『単なる脳梗塞患者』だと誤解する者が多く、担当者が変わる度に説明しなければならなかった。

正確には、『 “人工心肺下での長時間に及ぶ低温手術に伴う虚血状態” を主因とする “全身に及ぶ多臓器障害” 』と言うべきで、脳梗塞なんぞは、単に虚血状態によって障害を受けた多臓器のなかの一臓器に過ぎない。

日経新聞が作家の立松和平氏の死因を単に『多臓器不全』と報じていたが、まったくの誤りか、さもなければ、すり替えだ。多臓器の障害が突然、同時に起こるるはずが無い。

真の死因は飽くまでも、『 大動脈置換手術に伴う虚血状態を主因とする多臓器不全 』である。病院や新聞社は何を恐れているのだろうか。医療事故でなくても当然ありうるケースなのだから堂々と正確な報道をすべきだ。地下の立松氏もきっとそう言うに違いない。ついでに言うと、『不全』 という言い方も実にうさんくさい。 医学者は徒に言葉遊びで時間を潰すなと言いたくなる。 更に言うと、 『術後の合併症』 という言い方もごまかしである。 手術が引き起こしたダメージである以上、少なくとも 『手術の後遺症』 と言うべきであり、徒に手術に伴うリスクの存在を隠すような言い方は、百害あって一利なしである。

2010年2月28日日曜日

帰去来の辞(その2)

母校桐生高校の同窓会にリンクしていただいたのを機に、50年のブランクが一気に縮まったような気がする。先日も1年後輩に当たる木本氏から懇切な手紙をいただいた。
氏は桐中・桐高100年史の編纂に当たっておられるが、私たちが卒業した直後の昭和33年の火災で学籍簿を始め、20年代末以降の一切の書類が消失してしまったため記録集めに四苦八苦しておられるそうだ。

・・でも人生ってそういうものですよね・・・

私ももう少し元気になったら桐生にはせ参じてお手伝いするつもりだが、さしあたりは、在桐の同級生で年の割りに矍鑠としている連中に発破をかけることにした。

以下は、同窓会諸氏への呼びかけです。

思いつくまま強力なサポーターになってくれそうな方々の氏名をあげさせていただきます。
私からも極力連絡を取りますが、それにかまわず事務局のほうからどんどん連絡を取ってください。
そのさい、関口益照から紹介されたと言っていただいて結構です。
四の五の言う者はいないと思いますが、もしいたらご連絡ください。

33年桐高卒
野球は、甲子園に行くことすらできなかったが、東大には4人入った。
東大に入るほうがどう考えてもやさしい。
事業で成功している者も多い。

大島 宏周 大島会計事務所(桐高同窓会会計監査担当役員)
小倉 基義 赤城グループ会長(33年卒同窓会燦燦会代表)
        
サポーター
木村俊一  桐生法人会会長:西中時代の同級生(⇒慶応普通部)
        数年前彼の肝煎りで桐生法人会総会で講演した。
      
        
ここにあげた人たちは、私と違って顔の広い行動的な人ばかりですから、きっと力を貸してくれるだろうと思います。前に会ってから大分年数がたっているのでそれがいささか気がかりですが、今年の年賀状で見るかぎり、私よりはずっと元気そうです。

2010年2月24日水曜日

人生の最終章

『人生の最終章 』 とは、東大大石泰彦ゼミの畏友、片山直輝君の見舞状にあった言葉で、私は大いに気に入っている。
ところで、お互い『人生の最終章 』 を迎えると何らかの感慨が湧いてくるものだ。
私の場合は、思うこと>やりたいこと>やれること となるが、体調が良い時には、取敢あえずやれる事に挑戦してみる今日この頃である。

というわけで、先日、近くのスーパーの中に開店した古書店に行ってみた。小さな個人経営の店だが若い店主の好みか年寄りの客層の好みか知らないが、わりに年寄りの私の関心を引くものが多く、思わず手持ちの現金や持ち帰る体力をオーバーしてしまい、名前と住所を告げて預かってもらう羽目になった。


見つけた本: 舛添要一:『母に襁褓をあてるとき―介護 闘いの日々』

彼とは彼が東大助教授で、片山さつきと離婚してまだ一人暮らしをしていた頃、ある気楽な研究会で1年ほど付き合ったことがある。当時から東大の頑迷な古い体質を舌鋒鋭く批判していたが、その後20年近くある財団の無給評議員として何度か同席していたので、彼が上記の体験記を発表したときは本当に驚いた。前から一読しなければと思っていたが、まさか自分自身が当事者として読まされることになろうとは・・・

見つからなかった本: 手塚治:『メトロポリス』

私のもう一つのブログ 『50年前の今日』 に、

美智子妃ご分娩。親王誕生。
昭和三十五年二月二十三日
黄金の1960年の幕は切って落とされた。
(注: 何をもって『黄金の』と言ったのか思い出せない。たぶん、東大合格の縁起を担いだのだろう。)

と書いたが、そのくらい当時の熱気は凄まじく、それに比例して旧勢力の反対運動も執拗を極めた。
しかし、私の言いたいのはその影で、手塚作品が闇に葬られたのではないかと言うことだ。
それが初期の傑作 『メトロポリス』 だ。
なぜそう思うかと言うと、あの凄まじい、しかし軽薄な “ミッチーブーム” の中で、推進勢力としては、『メトロポリス』 の主人公・・・美少女でもあり美少年でもありながら、高層ビルを一撃で破壊する性別不明のロボットの名が、今をときめく皇太子妃の愛称と同じ 『 ミッチー 』 だというのは、格好の攻撃材料になりかねないと思ったに違いない、と思うからだ。
はたして何らかの圧力があったのか。それとも手塚自身、あの作品を失敗作だと思っていたのか・・・ショパン自身があの 『幻想即興曲』 を抹殺したかった(とか言われている)ように。

2010年2月19日金曜日

油蝉の鳴き声

飽くまでも雑感(よしなしごと)である。

油蝉の鳴き声とモーツアルトのトルコ行進曲の一部が似ている!

もうかれこれ50年以上前から、そんな気がしてきたが人に向かって言ったことは無かった。しかしこれは真面目な話である。
油蝉の鳴き声と言っても鳴きはじめや鳴き終わりのジージーというところではなく、羽と共鳴器を思いっきり広げて絶好調で鳴り響かせているときの声である。こと虫の鳴き声に関しては世界に冠たるわが日本語であるが、不思議なことにこの最もポピュラーな鳴き声の擬声語を聞いたことが無い。ならば自分がと子供のころから考え続けてきたがどうしてもピッタリの言い方が見つからなかった。
またトルコ行進曲と言っても最後の方のほんの一小節くらいの部分である。
らんらんらんらんらーん ららーん ららーん ららんらららん

こう書いてもいかにも歯痒いので、双方の似ていると思う部分を実際の音で比較してみたいが、適当なMIDIファイルを準備するのに一寸時間がかかりそうなので、取り敢えず「問題提起」だけしておくことにする。

同病の著名人たち

昨日の日経に載っていた週刊誌の広告で、作家の立松和平氏が去る2月8日、解離性大動脈瘤で死去したことを知った。氏には道元田中正造に対する関心を共有することで以前から親近感を抱いていたので、ぜひ一度会いたいと思っていたが、それも果たせずに終わってしまった。

私の『急性大動脈解離』と氏の『解離性大動脈瘤』の異同を述べれば限が無いが、要するにいったん『大動脈瘤』という瘤状態を経由するか否かの違いだと考えれば当たらずとも遠からずである。
いずれにせよ発端は何らかの事情(私の場合は未だに原因不明)で大動脈の中層に動脈血が流れ込むことによって発症する。激痛を伴い、数時間内に死亡するのが一般だそうだが、私の場合幸か不幸かその記憶すら無い。

この投稿も終わらぬうちにテレビのニュースが、“必殺仕事人”こと俳優の藤田まこと氏の訃報(注)を報じていた。こうして大動脈瘤や大動脈解離と言う疾患が俄かに有名になるのを喜んで良いものか、複雑な気持ちである。

大動脈解離ではないが、同病ということだけで言えば、天皇陛下とも『前立腺癌』の全摘手術を敢行した経験を共有する。畏れ多いことであるが、若輩の私のほうが2年ほど先輩である。

(注: 直接の死因は大動脈瘤破裂と報じられているらしいが、TVニュースを小耳に挟んだだけなので詳しいことはご本人の家族から何か異議のご連絡がない限り、ここに書き加えるのは差し控えたい。)

2010年2月16日火曜日

帰去来の辞

帰去来夸 田園将蕪胡不帰
(かえりなん いざ でんえん まさに あれなんとす)

病気とは直接関係ないが、帰心をそそる出来事が相次いだので、ぜひ書いておきたくなった。

その1
今朝の日経の文化欄に、群馬県館林市渡良瀬村の広瀬さんが館長を務める田中正造記念館のことが載っていた。 渡良瀬村下早川田の雲龍寺は、私の母の実家(増田家)の菩提寺であり小学生時代に何度か迎え盆や送り盆のとき渡良瀬大橋をわたって行ったことがある。
その2
今日、夕方5時ごろのNHKテレビで、熊谷市と利根川の対岸にある群馬県千代田町を結ぶ渡し舟が紹介された。 千代田町萱野は父方の祖父の郷里であるが、対岸の熊谷市俵瀬は祖母の実家があった村である。 祖母の実家のことはずっと気にはなっていたが、行ったことも無く、ただ熊谷の在としてしか聞いていなかった。
まさか利根川を挟んで対岸にあった事実上の隣村だったとは・・・・・
その3
昨日、私のホームページを母校桐生高校の同窓会ホームページにリンクした。長年の念願が叶って嬉しい。

人生の終わりに近くなって急に思いがけないことが実現するとは・・・
いよいよ死期が近づいているのかも知れない。
急がなくては・・・
しかし、いったい何を急ぐ必要があるのか・・・

2010年2月14日日曜日

旧友の訃報

先日、小学校4~6年生のとき同じクラスで1,2を争う美少女だった沼尻(旧姓松本)芳枝さんのご主人から電話があり、奥様の芳枝さん(我々小中学校時代の悪童たちは皆ヨシエちゃんと呼んでいた)が、名古屋のコンサート会場でご子息(沼尻竜典氏の指揮するオーケストラの演奏中に倒れ、そのまま帰らぬ人となった と伺った。まだ電話に出られない私は、妻からのまた聞きで想像するしかないが、どうも心臓発作だったらしい。WEBの挿話その2…で紹介した阿部君が一緒だったと言うからいずれ詳しいことは彼から聞けるだろう。しかし、私のような憎まれものが助かり、彼女のような人気者が亡くなるというのは、佳人薄命というか何とも理不尽な運命のいたずらである。
小林博士夫人の言われたように、まさに 「・・でも人生ってそうiいうものですよね・・・」心からご冥福をお祈りします。

芳枝さんには、中学卒業以来、25年くらい会ったことが無かったが、40歳を過ぎた頃、同級の悪友が渋谷(後赤坂に移転)で経営するカラオケバー(のんのん)で年1回の同窓会が開かれるようになってから、その席で会う機会があった。しかし、1995年に千葉の大学に移ってからは、東京を素通りすることが多く、同窓会も欠席続きで一度も出席していない。
大学もあと1年だからそろそろまた同窓会に顔を出してみようかなと思い始めた矢先の一昨年11月に突然倒れることになった顛末はすでに述べた。
4ヵ月後の去年3月に退院したものの、過去の記憶があやふやのため、とりあえず名簿と言う名簿を引っくり返して関係のありそうな方々宛に詫び状兼年賀状を出したところ、思いがけない方々から連絡をいただいた。沼尻さんもその一人である。
沼尻芳枝さんのご主人にお会いしたことは無いが、ご子息の英姿と活躍ぶりは妻や娘のほうが遥かに詳しい。まことに羨ましい限りだ。

お互いの家は100メートルも離れていなかったが、群馬県は男女別学なので高校時代の彼女の様子は知らない。しかし、その美少女ぶりは想像できた。
というのは、私たちが高校3年のとき彼女の弟さん(たしか真一郎君といったような気がする)が一年生だったが、これがまたとびきりの美少年で、文化祭の仮装行列に "Moorish maiden of sweet seventeen" のコスチュームで登場し、ヤンヤの喝采を浴びたほどだからである。観衆のなかにお姉さんがいたかどうかはいまだに知らない。
因みに私たちの仮装行列のテーマは、当時話題になっていたマナスル登山隊で、私自身は登山隊の単なる一員、彼の役回りは登山隊がカラコルム・ヒンズークシュあたりで出会ったイスラム美少女ということだった。審査結果は風刺が全然無いということで不評も良いところだったが、"Moorish maiden of sweet seventeen" だけは、理屈ぬきに好評だった。

2010年2月8日月曜日

手術同意書に見る怯懦の精神構造

患者の家族に突きつけられる手術同意書にはありとあらゆるリスクが書き連ねてある。
OSのインストールにあたって同意しますかと聞かれるようなもので、普通の人たちが拒否できる余地と時間はほとんど無い。
しかし、ここで私が問題にしているのはそのことではない。
そこに何一つ積極的な記述がないことだ。なにも宇宙飛行士ばかりがえらいのではない。
その手術が困難であればあるほど、また、失敗の可能性と後遺症の悲惨さが過酷であればあるほど、なぜそこに一行 『・・・の理由で後に続く患者と若い医師たちの研鑽の励みになります・・・云々』 と書いてないのか。
これでは難病の患者に救いが無い。尊い犠牲を犬死扱いし、患者及びその家族を不運な被害者扱いすることになる。
患者及びその家族にとって病気そのものの苦痛もさることながら尊い犠牲者として敬われることなく、不運な被害者として憐れまれる(振りをされる)ことのほうが遥かに過酷である。
日ごろから 『命を大切に』 という偽善的スローガンのもとに半病人ばかり量産する現代医療のあり方には疑問なしとしないが、そうであればなおさら、リスクの高い困難な手術に立ち向かう患者やその家族の尊い犠牲を称えるべきだ。

毎年、終戦(敗戦)記念日が近づくたびに繰り返される 『戦死者=無謀な戦争の犠牲者』、『戦没者=戦争被害者』  の大合唱も戦死者や戦没者を犬死した愚か者と罵っているのと変わらない。
その根底にあるのは、無知と自惚れ、そして怯懦の精神構造である。
天皇陛下は 、まさかそんなつもりで黙祷されているわけではあるまい。

因みに私は、2001年の前立腺癌手術以来、同病院でオーダーメイド治療のための血液提供(国家プロジェクト)をつづけているが、今回の手術を機に 『延命治療不可』、『献体可』、『臓器提供可』 のメモ書きを携行している。いずれ正式に登録するつもりだが、すでに妻には伝えており了解を取ってある。

無益な延命には反対だが、医学の進歩に有用なら身柄を預けるに吝かではない。

2010年2月6日土曜日

看病=菩薩行

看護と介護は業務として区別されているが患者の家族にとっては意味のない区分である。
私が入院していた4ヶ月の間、妻と娘は1日も欠かさず、家事もそこそこに交代で病室に駆けつけ夜の8時過ぎまで私の看病に明け暮れていた。とくに始めの2ヶ月間、多いときは一晩に12回もオムツを換える修羅場のなかで、毎日狭い病室のソファーに身体を縮めて泊り込み続けたので本人たちもよく身体がもったと驚いている。実際には私の入院中に娘が限界に達し一時入院する騒ぎもあり、これで妻が倒れたら一家全滅だと途方に暮れる一幕もあった。
ところが張本人の私自身は、自分の置かれた苦しい状況から見ると彼女たちに限らず看護師たちも健康そのものに思えるので、労わるどころか折に触れて当り散らす何とも可愛げの無い病人だった。
それにも拘わらず4ヶ月の間、私の前ではただの一度も嫌な顔を見せなかった妻と娘に対しては、ただ脱帽するしかない。しかし、妻や娘、とくに妻に対しては面と向かって有難うと言えない性分なので一人深夜の病室で涙ぐむ毎日だった。
父から生前よく菩薩行という言葉を聞いたことを思い出すがあの4ヶ月の間、妻や娘が全身全霊をあげて私の看病にあたってくれたのは、まさに菩薩行そのものだった。

入院中にお世話になった看護婦(敢えて看護師とは呼びたくない)さんたちにも心からお礼を言いたい。ほんとうに有難うございました。
看護師と言えば、入院中お世話になった女性の一人に、同じ病院のリハビリセンターの帰りにバッタリ出会ったことがある。首にコルセットを巻いているのでどうしたのかと聞くと、頚椎ヘルニアで手術をしたのだという。

『・・ああ、彼女たちも生身の身体に鞭打ちながら、しかし、そんなことはおくびにも出さず毎日毎晩、患者のために働いているのだなあ・・・』 

と頭が下がる思いだった。

2010年2月5日金曜日

生還の損得勘定

生還の損得勘定

損・・・ 不自由な手足(運動神経の麻痺)と不快な肛門(自律神経の麻痺)と侭ならぬ感情の起伏等々々・・・ありとあらゆる不快症状
得・・・ 予期していた世の中の変化を目の当たりにしたこと。

変化その1 ・・・ 300年にわたる白人優位思想の終焉。
      1st  日本海海戦における連合艦隊の完勝
      2nd 大東亜戦争を契機とするアジア諸国の蜂起と独立
      3rd 非白人の米国大統領の誕生
変化その2・・・南部、益川、小林、下村4博士のノーベル賞同時受賞。とりわけ、南部、益川・小林3氏の物理学賞受賞は、クラシック音楽についで学術の分野でもユダヤ人に追いつき追い越した証左。

嘗て名古屋大学物理学科の創設者であった故坂田昌一博士がある対談でこう語ったのを読んだことがある。
『物理学は現象論から出発して実体論まで歩を進めてきた。しかし、本質論の領域には一歩も踏み込んでいない。』

私の祖父が参禅した故原田祖岳老師は、アインシュタインによる相対性理論の発表に接し、「われわれは悟りの内容をいかに伝えるかに苦心してきたがそれは不可能だと感じ、『不立文字』、『只管打座』を唱えてきた。しかし、これからは科学者が説明してくれるだろう。」と語ったという。半世紀以上も前、何度も父から聞かされた話だ。

今回の受賞者について言えば、益川、小林両博士の理論はHOWは語ってもWHYは何も教えてくれない。その意味では実体論の範疇に止まる。しかし南部博士の理論は本質論の1歩手前まで迫っているように思われる。その意味ではホーキングはもとよりアインシュタインをも超えたと言えよう。

しかし以上の2点をどうでもよいと思うほど感動したのは、小林博士の夫人がTVのインタビューに答えて語ったつぎの一言だった。夫人は小林氏の母堂が氏の受賞を見ずに他界されたことに触れそれが一番の心残りだといった後、こうつぶやかれた。
『 ・・でも 人生ってそういうものですよね・・』
願わくは、世界中の誰でもよいから私の生きているうちに、我々の存在が宇宙に痕跡を残すや否や・・・生命体の営為に因果律が存在しうるや否や・・・を教えてほしい。

2010年2月4日木曜日

臨死体験の実態・・・究極の自己満足

臨死体験・・・2008.11.19からの数日間

ICUにて植物状態だった数日間、ピクリとも動かない私を前にして蘇生させようと妻や娘が必死に手足を動かしている間、私自身は決して意識がなかったわけではない。

だだし、全身の感覚が失われていたので妻や娘が必死に看病してくれていたことも、さらには妻や娘がそこにいたことすら認識していなかった。それにも拘わらず意識があったと言うのはどういうことかと言うと、要するに外部からのインプットが遮断された状態のまま、過去の記憶を好きなように編集して再生していたと考えればよい。
そこでは、壮大な建国神話の物語や自らの英雄的業績、さらには葬儀や火葬の模様まで一種異様な現実感をともなって進行する。しかし火葬に付される自分が少しも熱さを感じないといった極めて都合のよい究極の自己満足を味わえる世界であり、その意味では夢を見ているのと変わらない。それにしても、満開の桜並木や桜模様がフラクタル状に渦巻く山並そして同じく桜模様で埋め尽くされた高楼と言う具合にエンディングテーマが常に桜だったのには我ながら呆れるばかりだ。

しかし、ときどき部分的に外部からのインプットもあったらしく、後日、主治医と話しているうちにそれを指摘された。彼の言によればこのような短期記憶が残っていると言うのは、たとえそれがどのように変形していようと驚くべきケースだと言う。

それはどんな場面かと言うと、どういうわけか自分が広い病室のベッドに移され(どこから移されたかは定かでない)カーテンを隔てた右側には地位のあるらしい男性患者、左側には男女ははっきりしないが極めて重篤な患者が居て、それぞれ見舞い客や家族らしい人たちの声が聞こえてくる。「地位のあるらしい」と書いたのは誰かに何か指図している声が偉そうだったからだ。また「極めて重篤」と書いたのは家族らしい人たちの泣き叫ぶ声が聞こえたからだ。

この話を聞いて妻と娘がびっくりし、そのころピクリともしなかった私が時々眼をカッと見開いて左を向き隣から聞こえてくる悲鳴に似た声を聞いているような反応を示したと言うのである。

2人は毎日ICUの制限時間いっぱい私のそばに居たそうだが、隣りの患者の家族といつも待合室で一緒になるのでお互いに親近感を抱いていたと言う。ところが翌日その人たちの姿が見えないのでどうしたのだろうと病室に入ると左隣りのベッドが無くなっていた。一瞬にして事態を察知し、ハッとして私の安否を確かめたというのである。

話を元に戻すが、要するに世に言う臨死体験なるものは、いずれも自己満足の空想に過ぎないと言うことである。断っておくが私はいわゆる臨死体験なるものを無意味だと言っているわけではない。それが個人の人生観に良くも悪くも大きなインパクトを与えることに異論はない。
多くの場合、それは人の心をして残りの人生を有意義に過ごしたいという方向に動かすと言う意味では有意義な体験だと言えよう。

しかし、では有意義な人生とは何か・・・それを教えてくれるわけではない。

人は死ぬとどうなるか(究極の難題)

2010年2月3日水曜日

「満足せる豚よりも痩せたソクラテスになれ・・・」

「満足セル豚よりも痩せたソクラテスになれ・・・」これは我々の卒業式で大河内総長が述べたらしいが我々の中で誰一人聞いたものがいないという例の話の真相(私見)である。
4ヶ月の入院中毎日24時間ベッドの上であれこれ考えているうちに突然、あることに気がついた。
法文経大教室で聴いた大河内教授の最終講義の冒頭に先生は例の人を食った調子でこう言って我々を笑わせた。
「学者と言うものは因果なもので、いったんこうだと言ってしまったことは、後でこれはまずかったなと思っても変えるわけにいかない・・・」あの大河内先生にして自らの学説に瑕疵を認めていたのか・・・と言う感慨はさておき、重要なことは、いったん公にした以上いかなる理由があろうとも食言はしないと言う見事な姿勢である。
あの告示の原稿を書いたとき先生は予てからの持論として、至極当然のことを述べたつもりだったに違いない。しかし、それを新聞社に渡した後もう一度読み返すうちに或ることに考え及んで 「しまった」 と思ったのではないか。
「満足セル豚よりも痩せたソクラテスの方が優れていると言うのは独断に過ぎない。これを全卒業生に向かって言うことはできない。しかし、いったん新聞社に渡してしまった原稿を変えるわけにはいかない。」
これが自らの姿勢を貫くと同時に心ある若者の志にはなむけの言葉を送る唯一の方法だった。

「満足セル豚よりも痩せたソクラテスの方が優れていると言うのは独断に過ぎない。」
大河内先生はそう考えたに違いない。私がそれを確信したのは、私自身生死の竿頭に立って人生観の転換を経験したからだ。

2010年2月2日火曜日

人生観の転換

急性大動脈解離とは・・・・と書き出したものの後が続かない。
もともと遅筆だったのが更にひどくなった。
要するに体系的に総論を書こうとするからいけないのだ・・・

そこで、入院中に心に過ぎったことを断片的に書きならべることにする。
やはり兼好法師はたいしたものだ
・・・こころに移り行くよしなしごとをそこはかとなく書き尽くれば・・・

●大動脈解離、とくに急性大動脈解離は致死率が高く、心臓外科医にとって最大級の緊張を要求されるにも拘わらず保険制度上不当に軽く扱われている。つまり心臓病ではないことになっている。
私の場合、障害者認定が受けられない。
致死率について言えば、私の入院中2件の救急患者が運ばれてきたが、いずれも救急車が到着したとき既にこときれていたと聞いている。

大動脈を人工血管に置換する際、人工心肺に切り替えるが、置換手術そのものよりも、それに起因する後遺症(虚血性脳梗塞及び臓器障害)の方が遥かに悲惨である。
私の場合、植物状態1週間、排泄障害(要するに垂れ流し)4ヶ月、1年以上たった今も手足の痺れや麻痺のほか息切れや動悸に悩まされている。
今でも死なせないことだけを良しとして半病人を量産する現代の風潮には我慢がならない。

●医師・看護師・妻娘との論争
発病から40日経過した大晦日の夜中、医師・看護師・娘に対して「何故助けた!」と詰問し唯一自由の利く足の先で片っ端から蹴飛ばすと言う事件が起きた。
命の恩人たちに対して本当に申し訳なく思っている。
医師はこれをICUシンドロームと説明したそうだが、私に言わせれば人生観の問題でもある。
「70歳にもなろうというのにこんな苦しい思いをするくらいなら死んだ方がましだ」と言う悪態は退院するまでつき続けた。今でもその気持ちは時として噴出する。人類は異常大発生しているのであって希少種でもなんでもない。そんな哺乳類の命が何で大切なものか!

●医師によれば短期記憶は永久的に失われると言う。
私の場合、発病前後の記憶はまったくない。妻の話では早朝自宅でPCを使用中、隣室に駆け込み胸を押さえて昏倒したそうだ。それから救急車を呼んだり、妻と娘は大パニックに陥ったらしいが私自身はただ想像するしかない。
因みに1~2週間後、ある程度、思考能力が戻ってきたころ真っ先に聞いたのは「何か世の中で変わったことがあったか」であるが、妻から「オバマがヒラリーに勝った」と聞いても何のことやらさっぱりわからなった。米国大統領選挙のことだくらいは判るが「オバマ」とはいったいなんだ・・・。その後数週間のうちに歴史上の事実として記憶をたどることはできたが、彼が登場してきた時の臨場感はない。

●人生観の転換
2001年に前立腺癌の手術をしたときも人生観に何がしかの変化はあったと思う。
しかし、今回の入院生活の中で体験したそれはまさに決定的なものだった。
私は、これまでずっと「何事かを成し遂げる人生」に価値を見出してきた。
要するに人生には「価値ある人生」と「そうでない人生」の2通りがあるという観念である。
しかし今回、文字通り手も足も出ない状況におかれて、あらためてそのような2元論では何も解決しないことを知った。
では何を以ってこの世に生を受けたことの意義を見出しうるか。
18歳で華厳の滝に身を投じた藤村操になんと答えるか。
私の現時点での答えは 『世界≒宇宙』 の多様性を構成する固有の1要素 というものであるが、これについてはホーキング等の蒸発宇宙仮説のみならず生命体の営為に因果律が存在しうるかという究極の難問が残されている。

2010年1月4日月曜日

急性大動脈解離発症・・・奇跡的生還

平成20年11月19日早朝、突発的に急性大動脈乖離を発症、意識不明まま16℃の超低温下で10時間におよぶ緊急手術を受けることとなった。幸か不幸か一命を取り止めたものの、その後4ヶ月間の入院治療と1年以上に及ぶ何時果てるとも知れぬいわゆるリハビリの中で色々と考えさせられた。この間に体験した大きな人生観の転換について、これから何回かにわたって書き残しておきたい。

手術&入院: 茅ヶ崎徳洲会総合病院
参考: 国立循環器病センター